ストーリー志向のプレイスタイルについてうだうだと
ま、いろいろとやることはあるんだけどさ。
風呂入ってお茶飲んで、なんとなく中島みゆきとか聞いている午前4時なんて仕事したくないので。
ぐだぐだと書く。
ガチなストーリー・プレイでなんてたいそうなことを書いたことをちょっとしまったと思っている。他ならいざ知らず、DnD関連だとかつてBeholderさんと天査さんという方が論を戦わせ、一方はパワープレイをもう一方がリアルストーリープレイを標榜していた時代があった。で、割とまじめに(DnDのファンはたいてい真面目なんだが)いろいろ読んでる人がいたなら、ストーリープレイといえば天査さんの論を思い浮かべるだろう。
ごめんなさい。
多分あまり関係ないです。期待しないでください。
でまぁ、前回自分が書いたことのうち、ガチ云々を端的にまとめると、
まず、3をさらに補足しよう。
2にも関わるが、プロトコールが必要とされるのはセッションを持つにあたって共通とする認識がないからだ。そこで参加者全員がわかる(明示された)プロトコールがいる。で、DnDの3版以降はシステム周りが優秀なプロトコールとして機能している現状がある。
ありていに言って、DnDの3版以降はミニチュアを使ったボードゲームとしてのみ遊んでも十分遊べる(つか、それは単なる原点回帰だ)。
ではプロトコールが明示されなくてもだいじょぶな状況ってのは何か。それは、互いに勝手のわかるメンツで遊ぶ状況だ。
……このDMのルール的なキャパはあんまり広くないけど、基本的にPLを信用してくれてるんで「良心に任せて適当に公式とd20からサプリ選んで組んできた」でも認めてくれんべ。
……このPCレベルにこの脅威度はありえないけど、連中なら何とかするだろう。俺には想像もつかないやりかたをきっと思いつくに違いない。
こんなザルなルール周りの認識でもうまくいくもんである。
さらに、
……地下牢の中に妹に“似ている”女の子がいたなんてのは、単に属性がLGってだけならかからないフックかもしれないけど、アイツがこの状況を見逃すはずはない。
などというように、台本で言うところの「アテ書き」で遭遇をデザインすることも含まれる。
プロトコールを明示しないセッションの楽しさ、それは反則ができることだ。上記の例はみな“反則”と言っていい。が、それは単なる横紙破りではない。
「こうすれば、ウケ(「萌え」でも「燃え」でもまぁいい)るという確信があって、もしくはそう納得させると言う決心のもとに行なわれる、“反則”だ。*3
それでもこれはDMが恣意的にルール(ゲームのルールやテーブルルールも含んだ広義の意味)を捻じ曲げる行為であり、参加者に“何を判断基準にしてよいか”を迷わせる危険な行為である。
だが、それどころか、この恣意的なゲーム内事実の捻じ曲げにより参加者が満足することがある。参加者全員がそのDMによる恣意的判断をも判断材料に入れているときだ。
PLは知っている。
このマスターの操るドラゴンは倣岸尊大であり、たとえ命に関わる状況であってもちっぽけな存在に命乞いなどしないことを。MMの解説がどうあれ、このマスターにとってドラゴンとはそのような存在なのだ。
PLは知っている。
このマスターの世界においては、男は常に強くろくでなしで、女は美しくしたたか。士大夫もこそ泥もあっけなく死にあっけなく英雄となることを。たとえ、公式設定がそうでなかったとしても、かのDMはこうした世界を遊びたがっているからだ。
PLはこのDMによる、明文化されない偏りや好みを知っている。そして、それを好み遊んでいる。
彼らの前にあるのは、他のゲームグループと同じグレイホーク世界かもしれないが、DMはその世界を自分なりの世界法則に再編し提供している。そう、明文化できないほどに広範に、だが一定の傾向を持ってだ。
そしてこの再編は常に、参加者間のやり取りによって発展し、ピーキーな方向に最適化されてゆく。そして満足のいく一定の完成にたどり着いたとき、そこには部外者にはとても見せられないような、いや説明にやたら時間がかかるような卓がある。
実のところ、冒頭の“真剣勝負”と言うのはこの狭い卓での、果し合いなのかもしれない。ピーキーな仕上がりになった共有世界観で互いのプレイをぶつけ合う、それのことだ。
真剣勝負って何よ?
あらためて。
D16の言うところの“真剣勝負”ってーのはどうも、気心の知れたもの同士で作った、大変好みの幅が狭い共有世界でのPL、PCとしてのやり取り、らしい。
で、それってどこがどうストーリーよ?
思うに、
自分が考えるストーリープレイというのは参加者各自の中にある物語のぶつけ合い、なのだ。
何か一つのシチュエーションが起こったときに、それにどのプレイヤがどのような応答を返すか。
同席する参加者はその応答に返した彼自身の物語に対するスタンス、倫理に関するスタンス、美学に関するスタンスを見てしまう。
そして、そこに感動できてしまうことがある。
応答を返した彼の考える英雄像がそこに実現されてしまい、そこに同席したものたちはまさしく英雄の傍らにいるという感動を得てしまうことがある。
僕はこれがストーリーだと思う。結果や過程がたとえありふれたものであっても、感動できてしまう、ハズだ。
別に物語の形式というか、これまでに繰り返されてきたパターンをなぞることを陳腐とは考えない。物語として複数人が共通して理解できるシチュエーションはやはり有限だと思うからだ。*1
そして、その物語の実現に必要なのは、ギリギリの緊張感を強いる状況と、その上でなお世界観に対するゆるぎない信頼だだと僕は考える。
真剣な判断の元で下される決断、搾り出される言葉によりPLは英雄として、主人公として世界に働きかける。
そのときPLは、共有世界そのものの総意たるDMが、この物語を悲劇であれ英雄譚であれ満足のいく物語にしようとしていると信頼している。ただの無常な審判者ではない、物語を完遂させるために世界を運営してくれているはずだと言う確信がPLにはある。
この信頼は決して出来レースを志向してはいない。
PLはDMを信頼しているが、それは冒険や試練が失敗することも含めた信頼である。その失敗も満足いく物語になるはずだと言う信頼だ。
こうして結果として残る物語は、たとえそれがありふれた陳腐な物語であったとしても、間違いなくそのプレイグループによって作られ、体験された紛れもない英雄譚であり冒険譚となる。そして参加者はその物語が紡がれた場にいたこと、自らがその英雄であったことを誇りに思い、感動することができる。
ストーリープレイとは結果的には、こうした感動を得ることを目的としている、ようだ。*2
親密さの限界
前エントリで書いたように、僕が極論として思い描くストーリープレイってのはどうも趣味嗜好がかなり共通していないと成立しないっぽい。さらに、付け加えるならゲームを離れた付き合いにおいても仲間であることが望ましい。
理由はこうだ。
物語の形式やパターンをなぞることを陳腐とは考えない。僕はそう言った。
僕が萎えるのは、そのシチュエーションにあるとき、シチュエーションに応答を返す、彼の中の英雄像が単なるお約束のなぞりとして、現れてきてしまうとき、いわば安パイとして場に切られてしまう時だ。
その安易さが透けて見えてしまうととたんにセッションの色彩が失われてしまう。
いうならば、僕らはセッションの時、酔っていたいのだ。
告白したなら、笑ってごまかされたくないだろ?
抱きしめて髪に指を通したなら、息を呑んでもらいたいだろ?
たとえ、演技だとしても、感じてるフリくらいはしてもらいたいわけだ。
もちろんこれは、二重の刃だ。
彼が知らず導き出した彼の英雄像が、参加者にとって受け入れられないものである可能性は“常に”ある。
真実彼自身が、自分の言葉として搾り出した言葉が、それでもやはり許せないものである可能性はある。それに対して醒めてしまう、萎えてしまうということはどんな意味を持つのか?
さらにいうなら、そんな風に一度でも距離を感じてしまった時、ゲームを離れて付き合うことに何か影響を及ぼさないと言えるのか?
こんなのはだれかれと無くできる遊び方ではない。
みっともないところを含めて見せられるような仲間、身内ぐらいにしか出来ない遊び方だ。
異常なことを言っているのかもしれない。たかがゲームなのだ。そこまでしてすることじゃない。そんなエクストリームな楽しみを求められ、人格についての判断までされてたまるものか。
無茶言うなや。である。
この楽しみは多分、公言すべき類のものではない。やり取りの中でゲームを超えて互いの個性にまで踏み込み、没頭する。醍醐味には違いないが、誰もがそこに至る事が出来ないというのであれば声高に言い立てるだけ“野暮”ってことだ。
ただし、1つ確信がある。
これを経験したヤツは、多分RPGを飽きない。
環境が変わったりして、遊べないことがあったとしても、自発的にRPGを卒業はしようとはしないだろう。それほどに麻薬的な体験だと僕は思う。
けっしてRPG人口のすべてがこれを体験すべきだなどとは思わない。いや、1%にも届くかどうか、わからない。だが、こうした“物語の経験者、目撃者”は極致としてのセッション、何もかもがうまく行ってしまったセッションがあることを知っていて、そのことを伝えることができる。堂々と胸を張って“RPGってすっげーおもしろいぜ”と言える。
そして、そのうちの何割かは、それを再現しようとDMになったり、ヘビーユーザーになったりとこのジャンルを担いうる存在になる。
そして、D16自身もそういう魔境を見てしまったゲーマなので時折、ハメをはずしたくなるのだ。