卓上戦諸録(D16)

D16の卓上ゲーム記録

D&DトーナメントTrial・雑感

 先日の日記でも書いたとおり、1月末、D16はトーナメント形式のコンベンションでマスターしてきました。
 今回のトーナメント形式と言うのは、

  • 6つのパーティが同一のシナリオを平行して行なう
  • 各卓にはメインDMとSubDM、スコアラがつき全体をグランドマスターが統括する
  • 各遭遇についてポイントが定められており、PCの行動に応じて得点する。これには、モンスター制圧などのみではなく、情報の収集ができたかなどにもポイントが定められる
  • スコアラはそのポイントを非公開で集計。
  • プレイ時間は一定。終了時間がきたらそこでゲーム終了。
  • ポイントを集計し、順位を確定

と言った感じ。
 感想を書いたのですが、やや長文。
 好きな人だけどうぞ。

雑感1

 これはほんとに参加者としての雑感ね。
 複数卓で同一シナリオを遊び、獲得ポイントを競う。そういうやり方に疑問を抱く人は間違いなくいると思うのです。だってRPGって“勝ち負けの無い遊び”だといわれているからね。
 ただ、“勝ち負けを競う”というのと、“勝ち負けをもとにベストを尽くす”ってのは別なこと。草野球なりサッカーなりは“勝ち負けを競う、そのゲームの過程を楽しむ”という遊ばれ方をしてる気がするのです。単にボールを投げたり打ったりしているだけでも楽しいけど、何らかの目的の元にアクションを重ねて行くことが楽しい。
 勝ち負けという最終的な評価基準があるからこそ、どう行動すべきか明確にできる、その目的を共有できる(もちろん評価基準は主観的なものでなく、客観的な誰から見ても明らかなものでなければならない)。
 で、こういう立場からRPGを遊ぶ。
 僕は、そういう遊び方が唯一とは思いません(つか、参加した連中も唯一なんて思ってないでしょうが)。が、この遊び方に数々のメリットがあると考え、今回参加させていただきました。
 で、参加後の感想はまさしく“わが意を得たり”だったわけです。
 
 僕はトーナメントという遊び方では、キャラクター・パーティの運用技術がはかられるべきではないかと考えてます。もちろん、D&Dというゲームの強力なキャラクタ作成能力ならばPCの構築技術もモノを言います。けど、キャラは飾り物でもドラグレース用の機体でもありません。冒険者であり、実際に穴倉をはいずってナンボです。“これだけのことができる”キャラよりも“これだけのことをした”キャラの方が問答無用で高く評価されるべきです。ゆえに、D&Dのウデを競うのであれば個々のプレイグループの運用技術をはかるべきなのです。
 そして、そこにこそトーナメントという形の遊び方が意味を持ちます。
 トーナメントという遊び方、これを成立させているのは、

  1. 可能な限り標準化されたマスタリング環境(それゆえ、ルールにストイックなプレイスタイル)。
  2. 時間を区切ってのプレイ、すなわち実時間という、メタなリソースの配分を考えてのプレイ。
  3. そして、基準のはっきりした得点基準(いわゆるキャラクター・プレイは一切勘案されない)。

 です。
 PC=PL(そう、この環境では非常にPCとPLの距離は短くなります)。この条件で高得点を目指すには、

  1. 十分なルール理解に基づく、円滑・迅速な行動解決(短期的問題解決能力)。
  2. シナリオ内状況・環境の理解、そしてそこからこの冒険の全体像を判断し、行動指針を定める能力(長期的問題解決能力)。
  3. パーティ内での意思統一。

 が必要となります。
 これら3つの課題は、実のところカジュアルなゲームにおいても重要なスキルです。

単位時間当たりの問題解決能力

 続くね。文体変わるけど気にスンナ。
 先ほどの3つの課題をえらく単純化してしまうと、

  1. ルール理解・運用能力
  2. 作戦立案能力
  3. パーティ運用能力

 といってしまってもいいかもしれない。これらすべて、普段からのスムーズなセッションを成立させる要素だ。
 判定方法がわからなくてルールブックをひっくり返したりするのは論外としても(いや、しょっちゅうやるけどさ)、自分のPCがどのように行動したらPLの望むような結果を導き出せるのかとかはルールを知っていなければ導けない。最小限、自分のキャラクターに関わる判定系の処理方法をモノにしているだけで、確認の手間が省け、何よりも遊びの腰を折らずにプレイができる。
 シナリオの開始状況情報やNPCとの何気ないやり取りに隠された伏線、それらを理解して直面している問題の全体像を考えるっていうのは別に、戦略的シミュレーションが必要とされるときにのみ役立つわけじゃない。つか、“断片的な情報から全体像を想定し、対応策・落としどころを模索する”というのはミステリでも、恋愛モノでも、ストーリー的志向でもパワーゲーム的志向でも必要とされる能力だ。
 そして、パーティ運用能力。
 自分に何ができ、何ができない。仲間に何ができ、何ができない。自分を知るのと同じくらいに仲間を知り、その上でそれぞれの判断を信じ、一つの冒険者パーティという群体組織として連携し、行動する能力。

#ちなみに、こう書くといかにもD&D的な能力と思うかもしれないけれど、“互いの持ち味を生かしつつ、自己を主張し全体のテーマを発展させてゆく”とか書き換えればこれはストーリー支援型のRPGにも十分に援用できる能力だ。
 
 これらの能力を身につけたプレイグループの強み、それは“単位時間当たりの問題解決能力”が高いことだ。この“単位時間当たりの問題解決能力”の高さはパワースタイルのゲームには必須能力だろう、けど、ここではそっちには深く触れない。きっととーちゃんやえでぃさんがまとめてくれるはずだ。期待してます。
 
 というわけでストーリー志向(笑)のD16としてはこの“単位時間当たりの問題解決能力”をストーリー志向の立場から考えてみたい。

より多くの物語を

 ロールプレイ支援エンジンなどがついてない、質実剛健なD&Dのシステムでストーリーを楽しむ。
 いや、よく練られた遭遇を全力を尽くしてクリアしていくその過程こそがストーリーだ! と言うのはもっともなのだけど、NPCとのやり取りや、タメのうまく効いた伏線、ファンタシィならではの大風呂敷とかに驚く&驚かせるというのもRPGの楽しみなはずなのだ(“Paladin in Hell”とか読むとホントそう思う)。
 けど、それらのストーリー要素を展開するにはとりあえずPCたちには“生き残り”、“英雄になって”もらわなければならない。

#いや、英雄であることに“生き残る”ことが求められるあたりが、構造的欠陥って言われりゃ、そらもっともなんだけどさ。

 さらに言うなら、ストーリーを楽しんでもらおうと思うからこそ1回のセッションで、ある程度話を進捗させてもらわないと困る。
 そう、物語を進め、展開するためにこそ、このプレイ技術は必要とされる。
 さらにストーリー好きとしては、場合場合にもよるけどゲーム中はある程度ゲーム内の様子にインサイドしていて欲しい。そしてキャラクターとしての判断をして欲しい。そのインサイドを阻む最たるものがじつはルールの確認作業であり、さらに、ルールを誤解していたことでPCの判断が揺らいでしまうこと、だったりする。
 「ヒット・ポイントたくさんあるよ、50ポイントも。だから大丈夫!」
 といって、穴に飛び込むのは無謀さを演出するロールプレイとしてはアリだ。けど、そのあと、
 「深さ200フィートね、落下ダメージ20d6振って」
 「ごめん、今のナシで」
 とか言われると萎えるでしょ。「お前の無謀さは生き残れることを確信しての無謀さなのかッ! 」とか言いたくなる。
 D&D的には、自分の能力を知っているキャラクターが結果を予測した上で“カッコつけ”、そして結果を甘んじて受ける。と言うことがカッコいいのだ。つまり、D&Dにおいて“カッコつけ”たいのならルールを知り、自分に何ができるかわかってないとカッコつけることはできない。
 ハイランス卿のサイトにあった、「落下ダメージは3d6、俺のHPは10!いける」がシビレるくらいにカッコいいのはそこなのだ。期待値10.5に対してああいう賭けに出て勝った時、英雄のそばに居るっていう気になれる。
 そして、その“賭けに出る”という判断こそがキャラクターのロールプレイであり、記憶に残るキャラクターの個性になる。
 話を戻す。
 ストーリーはPCたちが切り開くもので、DMはその環境ときっかけになるようなイベント、展開するようなイベントをいくらか準備しておく。このとき、PCたちが話を進める=事態に対して何らかのアクションを起こす、ことができないとやはり話は進まない。偶然を装ってストーリーを進めてもPCたちの印象には残りにくい。
 PC=PLは自分が積極的に関わり、解決したイベントしか覚えてやがらないものだ。ならば、彼らに解決してもらわなければならない。
 そして、個々の遭遇よりも全体のストーリーラインで魅せようとする立場にとって1回のセッションがただ単にPCたちが陥った状況への対応策で終わってしまうと、全体のストーリーラインを牽引する流れがそのセッションで途切れてしまう。これは、痛い。
 言を重ねることになるが、ストーリーを遊ぼうと思うなら、やはり“単位時間当たりの問題解決能力”は重要になる。

上級プレイヤーとは

「OK、“単位時間当たりの問題解決能力”は重要だ、でトーナメントの話は? 」
 そこだ。『RPGはうまくなれるのか、RPGの上級者ってななんだ』なんて問いがあってこれまたあちこちで火災を起こしそうな内容なんだが、ことD&Dとトーナメントに関して言うならこれははっきりと定義できる。つまり、“単位時間あたりの問題解決能力”が高いのがとりあえずの上級者プレイヤーだ。
 「卓を囲んで楽しい」とか「論考が冴えてる」ってのもプレイヤーを評価する要素ではあるけれど、それはトーナメントには関係ない。技術として点数表記できないからだ。
 そんなのが上級者プレイヤーの定義でいいのか? 
 いいのである。
 基準が客観的で、その基準で判断している以上、彼は“トーナメントプレイの上級者プレイヤー”である。(mixiの文では、“上級者プレイヤー”としたけど、誤解受けるようだったので直しました。小太刀さん、白河堂さん感謝!)そして、この基準はことD&Dを楽しむ点において有効に働く。

 なぜなら、この基準にそって努力でき、上達できるからだ。
 
 D&Dに限らずRPGは間違いなく上達が必要とされる遊びだ。けれど、その上達をはかる手法はあんまり無かったと思う(この辺はD16がモノを知らないだけかもしれない)。
 けれど、トーナメントはそれを示してくれる。
 D16はそこにトーナメントの価値を見出す(あくまでD16自身の見解)。
 はじめたばかりのプレイグループや、身内のみで遊んでいたプレイグループが参加してみて、自分たちのプレイヤーとしてのレベル、弱点を客観的に知ることができれば、改善しようと努力できる。努力の結果はより円滑なゲームプレイにつながり、楽しいゲームに結びつく。そうしたらもっと楽しく遊んでくれる。
 
 楽しむため、技術が必要な遊びであるにもかかわらず、自分たちの技術を客観的に見ることも、改善することもできなかった。(D16はそこに日本でのRPG展開の弱点を見る。ここ、自分の知見不足を指摘されたので修正)その解決方法の1つとしてトーナメントというシステムはかなり、有効なのだ。

Tiralの結果が示したもの

 今回のTrialの結果はそれを如実に示している。
 あえて言わせてもらえば、1位、2位をとったプレイグループ、A.D.D.A.さんと龍駆亭の皆さんは“緻密かつ網羅的なルール理解”とか“穴の無いキャラ構築”とはかけ離れているプレイグループだったと思う。
 だが、“単位時間当たりの問題解決能力”は高かった。DM陣のだれもが“最後までいけるんかなぁ”と思っていたシナリオで最後まで行き、目的を果たした。直接、プレイを目にすることはできなかったので伝聞からの判断だが、おそらく、

  1. とりあえず、自分が理解できるキャラクターを使い、ルールの確認などは行なわない(SubDMから指摘があれば従う)。つまり、“ルールに使われない”ゲームスタイル。
  2. メタ情報(PL知識)などで悩むことをしない“キャラクターとして悩む必要が無いなら悩まない”。
  3. プレイグループ内での意思疎通が円滑。

 これらによって話を進めて行ったのではないだろうか(かなり推測入ってるので鵜呑みは禁止。あと識者の補足求む)。
 これはパワー・ゲーム的には穴が多い遊び方になるのかもしれないけど、ことストーリーに飛び込み、問題を解決するという立場にとってみればうなずけるやり方だ。
 
#いや、普段からそうやって遊んでいるだけなのかもしれないけど。
 
 そして、Trialのシナリオの点数配分はまさにそこ、“問題解決によって点数がはいる”配分になっていた。個々の遭遇をこなすことは手段に他ならず、冒険者たるもの“今、何のために険を冒しているのか”を常時念頭に置くべきだという考えが製作者側にあったのだろう(D16は製作には噛んでませんので推測)。
 
 じつのところ、まとめをここに置くような結論は僕の中でまだ出ていない。
 ただ、この競技的なプレイで見えてくるものは、決して何かすばらしく新しいものではないのでは無いだろうかという気はしている。それは多分、漠然と考えていた各人の、“D&Dのおもしろさ”について再確認したものでは無いだろうか。
 けど、具体例を踏み台に、その漠然とした“おもしろさ”、“展開への希望”を形にできる。そういうきっかけになるイベントだったと僕は考える。
 
 つーわけで、次につながるように微力ながらお手伝いさせていただきます。
 声かけてくれて感謝>とーちゃんさん、えでぃさん