卓上戦諸録(D16)

D16の卓上ゲーム記録

ストーリーゲームとの付き合い

 いろいろ買い物をしたんだけど、実は今日がRealize http://www.playm.co.jp/index2.htmの発売日でした。うああ、Fateもまだやっていないのに積みゲが溜まるよう。
 しかし、現代伝奇を考える上でこの作家陣は無視できないもんなぁ。
 デモンベインの時には最初に(自分的に)ベストエンドへ到着してしまって結局二回目以降のプレイをしていないけど、この二つはフルコンプするだろうなぁ。もう少しやることがないときならいいのに。(今が一番暇なはずの人が言っていい台詞ではありません)
 ヴィジュアルノベルとしてくくってしまっていいのかわからないけれども、D16は明らかにこれらのゲームにかつてのゲームブックの正統進化を見てしまいます。中でもゲーム的な要素の強かった「ドルアーガ・シリーズ」ではなく、「送り雛は瑠璃色に」ISBN:4789301192 や「展覧会の絵ISBN:4789301184 、「ディノン」シリーズですね。
 D16は同世代の多くのゲーマーと同じようにゲームブックによってストーリーを扱うゲームに入りました。RPGよりもAVGの方にもともと興味があったのです。ソフトで言うならウィザードリィハイドライドではなく、黄金の墓やデゼニワールドなんかなぁ。
 ただし、うちは決してTVゲームを買ってくれない家庭だったので。人ん家でやるしかなく、マリオブラザーズならまだしも人の家にきてポートピア連続殺人事件をひたすらやっているヤツは嫌われます。ですから、諦めなくてはなりませんでした。
 D16のRPGという趣味はあくまでコンピュータゲームの代替品として求めた結果なんです。
 が、
 本当の根源的なD16のゲームブックとの出会いは実はこうしたコンピュータゲーム以前にさかのぼっちゃうんです。日本最初のゲームブックって言うと多分火吹山の魔法使いが普通に出てくるんでしょうが、それ以前にたしか「君ならどうする」っていうシリーズがケイブンシャから出てたと思うんです。これはダイス判定などのないパラグラフ選択式の分岐小説になってました。
 ただ、重要なのは決して何らかの目的にそったエンディングや、複数のストーリーラインから浮かび上がるトゥルーストーリーなどは無かったんです。おぼろげな記憶なんでチト怪しいんですが。
 つまり、お話が選択によって紡がれていって、選択を変えるたんびに別の話になるのです。ただ、それだけ。
 それによって面白いストーリーが出るわけではないのです。本当に単に話が分岐するってだけで。
 けれどそれがD16にはとてつもない衝撃でした。それまで媒体で語られる物語ていうのは進行が線形で、順序が変わることも、そもそも読み手が「与えられた」はずの物語に関われることもありえなかったわけですから。
 読み手が物語に関わることができるのです。物語は与えられたものではなかった。読み手は客体ではなかった。その選択はもちろん書き手の掌の上でのことなのだけど、それでも組み合わせ、ストーリーの分岐は無限に思えました(小学校低学年じゃ、組み合わせとかその辺を知るはずが無かったもので)
 けれど、数を重ねるうちにこの媒体で語られるはず、語られうるはずの物語が「僕の期待に対して」あまりにバリエーションが少ないことに気がつきます。
 作品の質、量がそれをカバーすることもありました。分岐は少なくとも練りこまれた物語を読むこともできました。
 そして、ダイスが自然に物語を作ってくれることもありました。けれど、あくまで紙面媒体、パラグラフ形態では限界があった、そう感じました。
 それを解決する手段こそ人が物語の媒体になること、つまりゲームマスターの存在だったんです。それゆえD16はRPGという表現形式、媒体に心惹かれました。

#僕は本当に根っこはストーリー指向の吟遊詩人マスターだったんですよ。これが、DnD原理主義者になった過程はいずれ

 で、ようやく本題ですが、ヴィジュアルノベルっての言うのは僕が夢想してやまなかった理想のゲームブックなんです。読者の干渉によってストーリーが変化し、変化したストーリーが新たな局面をあらわにしいくつもの側面から物語の全貌が明らかになってゆく。
 いくつものベターエンド、ビターエンドを経て伏線が回収され、新たな伏線が発生し、そしてそれが最終的に物語り全体を俯瞰するトゥルーエンディングにつながる。
 フラグ管理、ビジュアル管理、フォントの表示タイミングの制御によるとても口承にちかい物語の提示。
 そして何より、繰り返せば繰り返すほど深くなってゆく、自分がそこに意味を見出してしまう描写。最初軽く流した描写、見逃していた台詞や描写が別の視点から見たときに待ったく別の、そして鮮烈な印象と意味をもって立ち現れてくる興奮。
 そしてさらに、この繰り返しによる興奮は、繰り返しという作業を可能にするコンピュータゲームでこそできる手法だといって良いんじゃないでしょうか。

 最も、これは多分僕が世に言う傑作しかプレイしていないせいだと思いますけど。スタージョン則は常に働くわけで、僕がこんなことをのほほんと言ってられるのは、大いなる先達の先輩方のおかげです。
 でなかったら、こんな風に理想的な台詞ははけないだろうなぁ。本当につまらないのもあるしなぁ。
 んなわけで、松谷さん、神無月さん、村岡さん、代価倒産、そしてなおなみさん情報よろしくです。