卓上戦諸録(D16)

D16の卓上ゲーム記録

プロトコルとしてのルール

 久しぶりに日記書いてから電源不要系アンテナチェックしてたら回転翼さんのブログが出ていたのでチェックしました。ScoopsRPG(http://www.scoopsrpg.com/index.html)でえらくイキのいい人が書いてるなと思って記憶に残っていたのです。
 自分は多分D&Dよりのゲーマーなので、回転翼さんの第1回のコラム「もしトラベラーとD&Dが逆転したら 〜RPGをうがつもの〜」(http://www.scoopsrpg.com/contents/kaitenyoku/kaitenyoku030801.html)を読んだとき、正直にある程度の違和感を感じました。多分その違和感は自分が天羅やソードワールドに関して抱いているのと同じような、「そのジャンルに対する先入観」めいたものと同じだと思います。
 つまり、D16としては回転翼さんのD&Dの捉え方はステロタイプなものであると思うし、それに対して「違うよー」といいたい気持ちもあったのです。この件に関してはあまり突っ込みません。D16はこの違和感のせいでこれ以降、コラムでの回転翼さんの言うことをよく理解しているとはいえないからです。
 従って、この項は回転翼さんの「ゲームマスター論に興味ナシ」(http://blog.melma.com/00123631/20041029024525)の記事に関する感想その他であり、回転翼さんがこれまでにいくつかの場所で書いてきたことをすべて理解してのものではないということを改めて断らせていただきます。
 ですから、明らかにD16が見当違いのことを言っているとか、勘違いをしていると感じた方は指摘していただけると嬉く思います。
 さて、本題。

 回転翼さんは「プレイヤーを知る。それ以上のGM論なんかありゃしないのです。」と書きます。

 プレイヤーを知る。それ以上のGM論なんかありゃしないのです。プレイ回数を重ねることも、プレイヤーを知るための手段でしかありません。
 プレイヤーを熟知してこそ、罠の加減や難易度も調整できますし、シナリオも想定外の展開を予防することができます。もちろん、ルールの精読は当たり前ですし、そのために打ち合わせをすることも勝手知ったるサークルの仲間となら容易にできます。
 後の細かい技術は仲間と論議しながらひたすら実践するのが一番です。見知らぬ人とじゃ、その実践が正しいか検証することも困難です(まず「打ち解ける」という作業が必要)ので、やはり仲間がいるのが大事です。

 僕にとって、GM技術向上とはサークルの馴染みになること、仲間を熟知することと直結するんです。
 故に、コンベンションを巡るフリーランス型のGMは数多くのプレイヤーから類型を取るしか方法がなく、えらく迂遠な道となるのです。GM論もまた、プレイヤーを特定していないだけにえらく上達の遅い手段ではないでしょうか。

 この一節。この後回転翼さんは

素性の分からない人間とGM論なんかしたって無駄。
 TRPGとは仲間とやるもんですから。どこの見知らぬ他人様のためにGM論をこさえても、それがしっくりくるワケありません。

 と続けます。
 個々のプレイグループはそれぞれユニーク(独特、独自)であるので、一般論をあげつらってもあまり意味がない。そのような謂いと理解しました。
 非常によくわかります。
 D16自身どちらかといえば穴熊ゲーマーであり、互いに手の内や嗜好を熟知したプレイグループでのマスタリングほど楽しいものはないと自覚しています。
 RPGがコミュニケーションを基本にしたゲームであり、互いの想像を元に進めていくゲームである以上、良好かつ親密な中でプレイすることは、

  • 想定していること、想像していることに関して参加者の間で差異が少なくてすむ。差異に気がついたらその修正を気軽に行なえる。差異に気づかずやり過ごし、その後判明しても互いに協力して回復させる行動がとりやすい。
  • 趣味嗜好を知っているためによりオーダーメイドな、プレイグループにあつらえたゲームを行なえる。

 といった利点があります。

 RPGと言う娯楽は、それが同じタイトルのRPGであっても、プレイグループごとにある程度プレイの様式、嗜好が独自のものなのでしょう。ゆえに完結したプレイグループの中で遊ばれることが運命付けられているのかもしれません。
 
 けれど、本当にそうでしょうか?
 感傷的なもの言いかもしれませんが、それって寂しくないですか?
 
 回転翼さんの意見に積極的に異を唱えるわけではありません。ただ、その言い切りの中で抜けているものがいくつかあると思うんです。
 D16は身内のグループでのプレイと外でのプレイにはそれぞれに別の楽しみがあると考え、外や一見の人とのプレイでもプロトコルに拠ってプレイすることでその楽しみは得られると考えます。そしてそのプロトコルこそが明らかにされたゲームのルールであり、そのゲームのルールから導かれる世界観だったり、公式のキャンペーンセッティングだと考えます。

 よその人と遊ぶことは楽しいのか。
 D16自身、限定された経験しかないのですが、楽しいと答えます。その楽しさは身内とのセッションとはまったく違う楽しさです。

  • 「馴れ合い」がないため、適度な緊張感がある。
  • 自分たちのプレイグループでは見なかったようなプレイ、戦術、キャラクターの作りこみを知ることができる。
  • よそのプレイを知ることで自分たちのプレイに得るものがある。
  • 最初の緊張感に類しますが、馴れ合いがないため自分の行動、演技を熟慮するようになる。また、自分の意図を明確に伝える必要があるため、ルール理解、冒険の文脈の解読を改めて真剣に行なうようになる。

 これらはすべて僕がプレイヤーとしてまたはマスターとしてコンベンションで体験したことです。

 D16はこれらのコンベンションでいろいろ思うことがあり、その上で先ほど書いたように、
『外や一見の人とのプレイでもプロトコルに拠ってプレイすることでその楽しみは得られる。そして明らかにされたゲームのルールこそ、そのプロトコルとなりうる』と考えるようになりました。
 初対面の人は何をするかわかりません。どんな風にプレイするのかわかりません。DMもプレイヤーも疑心暗鬼です。
 けれど、初対面のグループであってもゲームのルールに沿って紳士的に遊ぶ限り、楽しむことはできます。DMは恣意的な判断を極力減らし、PCはメタゲーム的思考を廃して公開された情報をもとにプレイするのです。そしてそれは拠って立つルールが明確であるなら可能なのです。
 その初対面の人たちと長くプレイするのは難しいかもしれません。けれど、少なくとも1回のセッションは楽しむことができ、それは得がたいプレイ資産となります。
 プロトコルにのっとったRPGといっても、それは硬直化したルーチンワーク的なものではありません。通り一遍でお決まりなダンジョンハックのことではないのです*1
 このプロトコルはゲームルールに則って遊ぶということと同時に、ルールの想定外の事に関してはなるべく逸脱しないようにする。もしくはルールに示された指針に則り速やかに卓の合意を取ってセッションを遂行するという態度です。
 もちろんこれは、DMのみが気にかけることなんかではありません。参加者すべてが心におき実行することでしょう。もっとディープで濃密なロールプレイを望むならば、それはそうした公的な場所ではなく、自分の身内でたっぷりこってりと楽しめばいいのです。それこそ5d6下2つ切り捨て能力値決定で、D&Dロゴはおろかd20製品すべてアリアリのアリ、ECL40で遊ぼうがそのグループが楽しんでればそれでいいのですから。
 必要なのはそうした求めるプレイの質、提供しようとするプレイの質に内と外の2つがあることを自覚して使い分け、特に外でのプレイ態度を意識的に制御すること。そして、そこで遊ぶゲームがシステムとしてプロトコルを提供できるだけの質を有しているということだとD16は考えます。
 そして、RPGAのサイト(http://www.wizards.com/default.asp?x=rpga/downloads)やLiving Greyhawk Campaign(http://www.living-greyhawk.com/files.htm)で得られる、使用できるルールのレギュレーション、してはならないことの規定など、デザイナーもしくはコンベンションを主催する側でこうしたプロトコルを提示できる環境はまさに理想的だと考えます。
 ですから、D16は回転翼さんの「僕にとって、GM技術向上とはサークルの馴染みになること、仲間を熟知することと直結するんです」という一節にとても納得はするけれど、それだけではない、互いを深く知ることとは別に楽しむ方法はあると考えます。
 そして、その道はGMが技術を向上するという特定の参加者に求められるのではなく、ゲームを楽しむ参加者全員がその技術の向上を楽しみつつ行なってゆくことで可能になると考えるのです。

*1:始末の悪いことに、D&Dはその「通り一遍でお決まりな」ダンジョンハックでも十分に楽しめるのですが。もちろん我田引水です