卓上戦諸録(D16)

D16の卓上ゲーム記録

脳髄熱的死テキスト

■ まずは以前の文章を(かなりリメイク)。
 TRPGの基本的構造は、プレイヤー(以下PL)がマスター(以下DM)の提案するシナリオを全滅なり達成なりで結果を出して終焉させるというものであるが(当然終焉しない場合もある)、奇妙な事にTRPGにおける審判は、原則的にはDMである。審判権をDMが保持している時点でこれが純粋な対立構造になる事は普通世間一般でTRPGと云われている行為の中では発生しにくい。当然である。DMはプロヂューサーであり敵であり裁定者なのだ。PLが(PL自身は未読の)シナリオを持ち込んでそれを厳密に適用させない限りはPL側が圧倒的に不利である。PL側がDM側に完全に公平さを求めた場合、互いにやるべき競技はTRPGではない。将棋や囲碁や麻雀である。*1しかし、殆どのTRPGにおいてはPLはDMとそれが用意したシナリオに対して常に対立行動を取らざるをえない。PL側のジレンマである。

 DMにもジレンマがある。敵側の怪物等を操るのと同時に、場合によってはPL側の味方であるNPCも操らなくてはならないのだ。このジレンマに押し潰されたDMはえてして怪物が一方的にPLの操るPCを、「ある制限」により叩き潰せない代価として自分の強力なNPCだけを戦闘で活躍させたりなど、虚しい行動に走ったりするのである。*2

 「ある制限」とは何か。「物語を成立させる」という不文律である。シナリオとは即ち物語である。所謂ダンジョンハックシナリオも当然物語である事に疑いは無い。何もメロドラマや壮大な叙事詩のみが物語というわけではないのだ。物語の本質は起承転結という流れが存在するかどうかである。ゲームを開始し、展開があり、そしてゲームが終焉に至った場合それは常に物語である。

 では、DMの、いや全体のジレンマとしての物語の「成立」とはなんであろうか? 世のDMは物語の「成立」の為にシナリオ内の敵の強さや数をゲーム中に変更させたり、突然と救済措置的意味を持った「何か」を出現させたり、マスタースクリーンという絶対不可侵領域内でダイスの目を、つまり「結果」を己の物語の「成立」に向かって変更させたりするわけである。その一方で、あるDMはオープンダイスで全てを解決し、シナリオの内容は一切変更させず、PL側の全滅すらも物語の「成立」の一つの選択肢である事を当然の如く認識している。

 どちらもTRPGの遊び方では良く見られる方法論である。前者はDMの恣意的な誘導によりDM個人、若しくはPL側の総意(或いはPL数人の総意乃至個人意思)に則った物語の「成立」を目指しているのに対し、後者は恣意的要素を排除し、シナリオを難易度とした競技的ゲームの結果としての物語の「成立」を目指しているのである。この両方の方法論は全く異なるが、しかし、同じ(或いは似たような)ゲームシステムを使用する事でそれは総てTRPG(或いはRPG)と呼ばれているのである。

 非常に興味深いのだが、これに酷似したジャンルがある。プロ・レスリング、略してプロレスである。本文章はプロレスとTRPGの酷似性を提示するものであると同時に、プロレスの内包する多様性をTRPGにも認めさせ、各個人にTRPGにおける自らのプロレス的スタンスを認識してもらう為のものである。まずは下のリンクから読む事のできる用語集を熟読されたし。以後ここからの用語が便宜上頻出する事となるのは明らかだからである。中にはプロレスに対する幻想が崩れる者もいるかもしれないが、この用語集はプロレスを貶めるものではない事を述べておく。この用語集を読んだ者でプロレスに偏見を持っていたりする向きには若しかするとプロレスが見るに耐えない茶番に映るかもしれないが、畢竟それは自らTRPGは茶番だと宣言するようなものである。

禁断の「真・格闘技用語集」

 如何であろうか。TRPGとはその演劇性と競技性の鬩ぎ合いの構図がプロレスと酷似している事に気付いた読者も居るのではなかろうか。尤も、ある程度プロレスやその周囲の格闘技を知らないと全く理解できないかもしれないが、本文はそのような対象者には向けて書いておらず、よってこの時点で読む事を中止する事を勧めておく。しかし、ここで気付いた読者にはこれからの文章はその閃きの補足に過ぎない。また、上記サイトでの用語集を理解できなかった向きにはこの文章は一部の好き者向けに書かれているに過ぎないので、他の側面からTRPGに関して書かれた文章を読まれたし。興味深いものは多数Web上に存在すると思われるし、各所の掲示板では日々TRPGについて論争が行われていたりするであろう。このような偏った文章ではなく、普遍的なものを読んだ方が読者諸兄の為でもあろう。

 繰り返すが、なんとTRPGはプロレス的である事か!*3

 この構図を説明すると、プロレスで云う所の「Booker」こそDMである。その「Book」はいわばシナリオであり、プロレス演劇的な起承転結がその中で書かれる事となる。シナリオとは主に本(book)の形をしている事も興味深い。次いでDMは「Heel」となり、PL達の敵となり対峙する。ここで分岐点が生じるが、ロールプレイング的側面を重視するDMは「物語」の成立上、基本的に負けなければならない場面で上手に負ける。プロレスで云うと巧い「Bump」を見せて「Sell」するといった構図がこれに相当する。この上手に受ける匙加減が上手なDMを巧いDMと世間一般では云うのではないだろうか。これは戦闘の部分に限らず、NPCとの会話や交渉といった部分でも同様な事が云える。所謂掛け合いの巧さ、PLの行動・発言の裁き方の巧さである。この一連の流れをプロレスでは「Work」と表現しているのは既に読んだ用語集からも明らかである。こういった「Work」的なスタイルでもゲーム的側面を重視すると、「Book」が組まれるのは変わり無いにしても、戦闘などの部分では「Shoot」的な展開が繰り広げられるのだ。所謂ガチンコである。

 ガチンコを標榜するプロレス団体、またはその周囲の総合格闘技と、スポーツエンターテイメントを標榜して止まないWWF(現在はWWEとその呼称を変更している)など、その中間で揺れ動く日本の主なプロレス団体の違いを考えてみよう。TRPGのプレイスタイルの全てはプロレスの中に内在するのだ。多少の匙加減の違いでそのスタイルもかなり異なる。以下にあげる例は極端な事例に過ぎない。無限の匙加減がある事はTRPGを普段遊んでいる者なら、また広い幅でプロレスを見ている者なら既に自覚している事だと思う。

 では、ロールプレイ重視の「Work」的TRPGについて。

 「Book」があるのはシナリオを必要条件としたTRPGというシステムでは当然の事である。その中でDMは「Job」を行いPLの行動に巧く「Bump」を取り、適度に敵による攻撃などのプレッシャーを与えて「物語」という試合を組み立てていく仕事をしている。よく、TRPG入門書やWebでの入門者記事等に「マスターはレフェリーである」と書かれているがこれは間違いである。この場合のレフェリーという言葉には競技における「審判」の意味しか与えられていない。プロレスのレフェリーは根本的に違う。レスラーだけでなくレフェリーも試合を作っていくのだ。競技としての試合を「裁く」レフェリーではなく、「Work」としてのプロレスを「捌く」レフェリーの役割がDMに求められている事実こそ、「マスターはレフェリーである。」という言葉に込められるべきなのである。*4

 しかしそれを読み取らない、つまりプロレス的理解力に欠けるDMがロールプレイ重視のスタイルを貫くと稀に悲惨なセッションになる。上手な「Sell」は状況や流れを巧く把握してできる芸当である。自分の書いた「Book」に固執し、また「審判」として「裁く」事がDMの仕事の一面だと勘違いしているDMは、己の「Work」の一環としてマスタースクリーンの裏での色々な操作は行っているものの、PL側には「審判」として「Shoot」に「裁く」のである。この認識のズレが軋轢となり、しばしば滑稽な展開がセッション中に展開される。所謂「Screwjob」という状態だ。

 「Shoot風Angle」の為に何も事前に知らされていないガチンコなPLに対しての「Sell」はありえるのだが、それは場が「Shoot」を前提としている場合においてのみ有効であり、「Work」的TRPGの場においては通用しない。PLが「Shoot」を仕掛け、DMが「Work」するという状況こそTRPGの殆どの場面における現実である。これは「Work」の場を設けるに当たりPL、DM双方のプロレス的認識が欠如している証拠である。PLが「Job」する事が構造上出来ないのだ。私は演技的TRPGの場においてはPLの「Work」をも許可するべきであると確信している。PLがダイスの目や数値をDM同様に誤魔化しては何故いけないのだろうか?

 当然いけないのである。それでは一方的に成り立っていたゲームすら成り立たない。しかもPLは一方的にではあるが「Shoot」を仕掛ける事をDMに強要されてきたのだ。云い換えればDMのマスタースクリーンの裏の出来事はどうであれ、DMの意図であ「結果」だけが事実としてPLに提示され、PLはそれを「Shoot」だと信じてプレイするしか許されてなかったという事だ。当然上手な「Bump」を取るのは著しく困難であろう。自分の為に「Work」する事を覚えても、他人の為に「Job」する事はなかなか出来ないのだ。DM経験が無い初心者PLなどはこの傾向が顕著であり、「Bump」を取るにしてもそれは他者を引き立たせる為ではなく、自分を「Over」させる為であり、相互に「Over」させ合いながら、というプロレス的基本すら理解できていない行動を取る。プロレス的基本が完全に理解できたならば、PL側による数値の捏造など些細な問題に過ぎない。DMがマスタースクリーンの裏で「Work」している場合はPLにもその権利は確実にあるのだ。

 演劇的TRPGシステムはPLのダイス目や数値を誤魔化すという方法の代わりに、各種の素晴らしいアイデアをそのシステムの中に取り込んできた。「天羅万象」というシステムを読んだ時、私は「これはプロレスを行うシステムである」と確信した。PLにも遂に「Work」する自由が与えられたのだ。あの気合システムを私は手放しで絶賛する。TORGのポシビリティエネルギーの論法を究極的にエクストリーム化させた気合システム。それはルールを振りかざしながらも自由に能力値やダイスの目に干渉を与える事が出来、しかも気合の取得の条件は極めて形而上的に昇華されているのだ。正直な話革命的である。PLもゲームの流れを「Work」によって作る事が許されたのだ。

 あのようなストーリー重視のゲームの至上命題は「如何に素晴らしいWorkを成し遂げるか」であり、またそれをプレイヤーグループ全体で共有し浸る事である。参加者=観客でもあるのだ。観客としてセッションを俯瞰した時に参加者として「Sell」しなければならない場が見極められるか否かがPLとしての資質であり、プロレス的論法を弁えている人ほどこのようなシステムを上手にこなすのである。「風車の理論」という言葉を知っているだろうか?*5これは当然TRPGにも当て嵌まる。この手のゲームの能力が高い人間とは素晴らしいストーリーを小説のように生み出せる人間ではないのだ。尤も、「Book」の段階ではそれは有効であるのだが。ストーリーを生み出す能力は必要だが、プロレス的ストーリーの製作、つまりマットの中、ゲームの中での「押し」と「受け」でストーリーが作れる人間こそがこの手のゲームに適した能力を持った人間である事は云うまでも無い。

 それはちょうどフリージャズのジャムセッションにも似ている。が、私は音楽というプロレス以上に言葉にし難いジャンルでTRPGを語る舌を今は持っていない。インプロぜーション=TRPG論を語れる日は来るのであろうか。今はただ考えるのみである。実際にその手の演奏者にでもならない限り解らないかもしれないが。*6

 感動的な「Work」は多数存在する。「Work」とは八百長ではない。超現実なのだ。映画や小説による感動と、「Work」による感動は寸分の違いも無い。「Work」という時点で感情移入を廃してしてまう人間もいるのだが、あまりに浅はかであるとしか云い様が無い。橋本が小川に引退をかけて戦ったあの日、我々は完全にあの「Angle」の虜だった。橋本の小川に対するリベンジのストーリーの最終段階。煮え湯を飲まされてきた橋本の勝利を流れからも確信していた。しかし試合は壮絶なものとなり、橋本もこれまでに無いほど善戦し、寧ろ押していたが、結果はというとSTOを連続で喰らった橋本の壮絶な惨敗であった。凄まじい脱力感であった。声を出して驚きの声を発したし、心臓の鼓動も高鳴っていた。まさか橋本が負けるとは想像しなかった。プロレス文脈で考えると、この戦いで橋本が遂にリベンジを果たすと普通は思うわけである。「Book」や「Work」と云うのは子供騙しではないのだ。虚と現実を区別がつかないまでに混在してエンターテイメントとして昇華するのがプロレスである。思った以上に奥が深いのである。ならば「Work」的TRPGについても同じ事が云えるのではないか。

 当然、TRPGがダイスを使用する様に、プロレスも双方「Work」だからといって「流れ」が場を支配している以上、現場で過程として「Book破り」が生じたりする。筋書きがあったとしても非常に不確実要素が高いのである。演劇性が極端に進化したアメリカンプロレスの世界に於いてもこれは変わらない。「Work」的TRPGについてはこれまでにするが、最後に最近アメリカンプロレスのドキュメント的映像作品が出てきているのでそれについて書かれている文章を紹介する。この他の回のコラムも精読されたし。

浅草キッドのサイト内のコラム
引用者注釈・この記事だったと思うが本当にそうだったか少し怪しい。

 一部のDMは演劇的要素を嫌う。少なくとも好まない。TRPGとはGが付属するが故にゲームであり、ゲームとは試合であり勝ち負けなのだという「Shoot」な意見を持っているからだ。プロレスの場合、UWFの旗揚げまでの経緯やパンクラス信者、修斗ファン、リングス&前田ファン、PRIDEを全部ガチだと思って観ている人等と比較して考えれば*7、この「Shoot」愛好者の気持ちが解るのではないだろうか。そもそもプロレスが街の喧嘩をも内包したガチンコのアマチュア競技のプロ化(=演劇化)という事を考えると、完全なガチンコ競技であるシミュレーションゲームからTRPGが生まれてきた事は当然の帰結である*8。プロ化しても原点を常に大切にする流れがあるのはプロレスもTRPGも同じである。パンクラスという団体名はガチ競技としてのパンクラチオンへの憧憬であり、TRPGでもD&Dは再びパワープレイ向けに3rdとなって蘇ってきた。

 しかし、「Shoot」な競技はエンターテイメントにはなりにくい。「プロレス的Angle」を使用していない純粋ガチ系興行では選手はプロではあるがそれだけでは食べてはいけないのだ。プロレスに限らず、ボクシングを例に考えても殆どのプロはそれだけでは食べてはいけない。PRIDEはその点巧妙ではあるが、プロレス的文脈を持ち込んだに過ぎない。プロレスの呪縛から逃れて興行は打てないのだ。興行的にはいかなるガチ系団体も、エンターテイメントの極みであるWWFに及ばないのだ。WWFの隆盛ぶりは目覚しいものがあり、今年2月にはXFLというアメフトの新リーグをも設立する程の勢いである。チームではなくリーグ。この事からもエンターテイメントの持つ力を理解できるのではないかと思う。兎に角、90%の素人層が見ていて楽しいのはエンターテイメントであり、10%のマニアが何を云おうがこれは不変である。*9

 ガチンコを専門知識の無い一般が娯楽として楽しむ場合、必然的に残酷ショーにならざるを得ない。ローマの闘技場での殺戮ショー、ボクシングのKO、PRIDEやK-1での一方的な攻撃に一般層は興奮するが、膠着して判定で決着がついたボクシングの試合を心から楽しむ一般というのは存在しない。マニア化しなくては「Shoot」な試合は純粋に楽しめないのだ。そもそも歴史的には素手での格闘技において「Shoot」よりも「Work」の方が歴史は古い。

 繰り返すが一切の「Angle」を排除して競技としての「Shoot」は面白くない。面白ければアマチュア空手大会は大盛況のはずだし、警察の柔道大会には黒山の人だかりが生じているだろう。オリンピックが何故面白いのか。あれは純粋に競技を楽しんでいるのではなく、国家規模の「Angle」を楽しんでいるに過ぎない。*10誰が田村亮子の柔道の試合の組み立て方について一緒にテレビを鑑賞している家族や友人と会話したであろうか。しかし、「Shoot」な競技はやっている方は面白くて仕方が無いのだ。「Work」の出来不出来は一切気にせず、相手を倒すために全力を使うのはDMにとっても枷が外れたかのような快感であろう。では、「Shoot」なTRPGとはいかなるものであろうか。

 オープンダイスは競技性の維持として当然とし、モンスターのデータも戦術もルールの記述通りでDMの恣意的な影響は無し。シナリオも市販のシナリオを使用するか、ルールに則って製作。モンスターの配置も財宝も全てルールに従う。そしてPLは恣意的マスタリングの下では考えられないが、DMの機嫌、気分、趣味等を考慮に入れずルール内で予想される確実な情報を元に行動するのである。戦闘はPLとDMが全力で行い、「良い勝負」を「成立」させる事は考慮に入れず双方「勝利」という物語の「成立」を念頭に置いてプレイされる。AD&Dのような桁違いにヘヴィなシステムになると、上級者同士の戦いはそれこそ熾烈になり、ギャラリーのAD&D経験者は凄まじい攻防が展開されるのを目の当たりにして興奮するかもしれない。テレビで高校生柔道大会を観て楽しむ柔道経験者の私のように。しかし、一般のTRPGプレイヤーがそのような光景を見て楽しそうに思うかといえばそうではない。理由は再三述べたので割愛する。

 「Work」としてのTRPGがエンターテイメント性の追求なら、「Shoot」としてのTRPGはアスリート性の追求である。往々にしてアスリート信者でエンターテイメントをよく知らない者はこれを馬鹿にする。考えてみて欲しい。どれだけ総合格闘技のファンががプロレスを馬鹿にしてきたかを。エンターテイメント性を理解していない「Shoot」なゲーマーが、演技重視によるワークを含んだプレイスタイルに対して抱く印象は驚くほど酷似している。しかしこの問題については今は本題と外れるので機会があったら別に書いてみたい。

 兎に角、この様に「Shoot」なTRPGだと、DMとPLの対立構造は明確になってくる。レフェリーは個人として存在せず、参加者全員の「Shoot」的な総意とルールブックがレフェリーとして存在するのである。これを外れてDMが恣意的に操作する事は許されてはいない。彼らはアスリートたらんとする為にガチンコな「ゲーム」を繰り返すのだ。こういうスタイルは一般では受け入れられ難い。誰がゲーム開始直後のランダムエンカウントで殺されて楽しいのだろうか。90%の大衆はそれを許容できない。多分、最悪なDMに出会ったと考え、後に愚痴をこぼしたりするのである。しかし一部の人間にとってはルール通りに出現したこの勝ち目の無いエンカウントとの遭遇は特別な状況でもなんでもないのである。

 逆もまた然り。ガチンコ信者である「Shoot」なPLが「Work」的なDMの卓に参加して、絶対的ブラックボックスであるマスタースクリーンの裏と、DM次第の恣意的なルールの適用について不愉快になる事も十分ありえる。場合によっては頭にきたガール・ゴッチばりに「Shoot」をそのDMに仕掛けてその場を台無しにしたりするであろう。そうして「だからああいうパワープレイヤーは…」と愚痴られるのである。当然「Shoot」なPLも愚痴る。所謂「Screwjob」といった状態だ。オリンピックの試合では相手に情けをかけて負ける選手が(表面上は)いない事に文句をいう者はいない。皆が同じ競技をやるだけではなく、同じ方向性のプレイを行っているからに他ならない。

 TRPGという場で「Worker」が「Shooter」に文句を言う、或いはその逆のケースであっても、「自分がやっているものはTRPGなのでDMもPLもやっている事が同じだ。」という途方も無い認識不足から発しているとしか思えない。匙加減が少々異なるだけでどうなるかはプロレス者は知っている。

 本文には「プロレスとTRPG」は似ているのではないか? という以上に伝えない内容は無い*11。特筆するなら「プロレスとTRPGのプレイ様式の相似性の面白さ」であろう。プロレスの構図は本当に奥が深い。多彩な「Angle」で世間を巻き込み、ファンタジーをリングの上で現実化させ、虚と実が織り交ざっている。東スポを読むだけでもこれは明らかである。その構図の片鱗でを理解しただけでも、TRPGセッションにおける自分と相手の立ち位置、流れ、「Shoot」と「Work」、色々なものが見えてくる。それをどう応用するかは個人の勝手であり、私の知るところではない。ただしこれは言える。プロレスでも「Screwjob」は原則的には嫌われるのだ。巧くスイングしなくてはならない。その為のノウハウはプロレスには沢山存在する。TRPGにそれを応用して悪いものではない。

 兎も角、この相似性は面白い。その面白さの片鱗でも提供できたとするなら幸いである。尤も、この文章はあくまでも取り掛かりとして浅く広く表面的に書かれたものに過ぎない。木に例えるならこの文章は幹の皮である。この文章に散在した部分を抜き出して色々考えると更に面白い。一緒に面白がりたい向きについては掲示板で質問なり意見なり反論なりして頂きたい。(引用者注・現在脳髄熱的死氏の掲示板はありません。D16からも連絡は取り次ぎませんのでよろしく)

 貴方のプロレス観とTRPG観に何かしら変化がある事を願ってひとまずキーを叩くのをやめる事にする。

*1:最近、軍人将棋のように審判を入れて純粋にPC対モンスターで遊べないものかと考えているんですよ。審判は個人でも、プレイヤー全員でもいいんですけどね。▼↑02-07-29付記:メイジナイトの「ダンジョン」がもしかしたらそういうものに相当するのかもしれないが、筆者はまだメイジナイトを未体験なのでよくわからない。

*2:2ch」などを読む限り、高レベル美少女戦士NPCが独りで活躍してPC達は観戦モードってのは世の中に意外とあるらしい。ネタであることを切に願いますよまったくもう。▼↑02-07-29付記:DM個人の自己顕示欲だけに注目されがちだが、こういった行動を取らせるのはTRPGの構造から発生するジレンマのせいかもしれないと筆者は思っている。

*3:まったくである。

*4:今では、「マスターはゲームをキャリーするヒールである。」と云った方がしっくりくると考えている。WWFのHHHを見れば、感動的なまでに上手なマスタリングは自ずと見えてくるはずである。▼↑02-07-29付記:HHHを賞賛していたのはこの記事が書かれた当時、ディジェネレーションXとステフを引き連れ、WWF王者として暴れていた頃だからであろう。個人的にはステフ誘拐→ヒールターン以後の話がHHHとロックの対立に昇華されていくあの当時が一番沸点が高くなった時期ではないだろうかと思っている。▼それにしても、レフェリーが試合を作っている事をプロレスだけでなくまさかガチ興行のW杯で見られることになろうとは(笑)。

*5:知っているならほぼ確実に私より年齢が上かプロレスマニアかのどっちかだね!(笑)  

*6:ジャムセッションでもセッションをキャリーする人物というのは存在するわけで、構図はやはり似ている。

*7:その興行が「本当に」ガチ興行なのかどうかという事にはこの場合意味が無い。

*8:どうもシミュレーションといっても色々あるようです。私が詳しくないのでなんかこれは誤った書き方であったようです。正しい表現が何なのかは未だに解ってはいないんですけどね。(レンガさんありがとう!)

*9:XFLは2001年4月段階では不評です(苦笑)。▼↑02-07-29付記:これはアメリカ人のコアの部分をある種冒涜するような試みだったのかもしれない。エンターテイメントの演出は兎も角リーグのレベルが低すぎたという意見もある。完全な「Shoot」アングルであるスポーツ界に「Work」的な匂いは合わなかったのだろう。

*10:ナショナリズムを刺激するアングルは洋の東西を問わず古来からプロレスの常套手段です。(例:力道山が空手チョップで外国人をやっつける、日本人がアメリカでヒールとして活躍する…等々。)▼↑02-07-29付記 W杯を迎えた日本を見ればこれは明らかであったと思う。サッカーを知らない人間までがサッカーを語り、Jリーグ等一度も見たことが無かった人間がテレビにかじりつき、国の事など考えもしない若者が「ニッポン!ニッポン!」と叫び街中で騒乱するのである。これはナショナリズムアングルの有効性を示す素晴らしいサンプルであるといえよう。

*11:最初の方に書いたこの文章の目的とは違っている。(笑)