卓上戦諸録(D16)

D16の卓上ゲーム記録

プロレスとUWF≒RPGとD&D3rd

 眠れないので断片的に。
 先日脳髄さんのテキストを引いた後(http://d.hatena.ne.jp/D16/20050503#p1)「じゃあ、D16はどうなんよ」と言うのを書けずにいたので。長そうなんでちこちこと手をつける。
 プロレスの話をするときに、数年前だったらUWFUWFイズムなんて言葉が素で通じたのかもしれないけれどK-1やPRIDEがゴールデンタイムにやっている今では逆に知らない人のほうが多いのかもしれない。
 
 それはまだ、グレイシー柔術が世に知られていなかった時代。
 「格闘技通信」がえらくマイナーな雑誌だった時代。
 「まだ見ぬ強豪」の称号に今よりも魔力があった時代。
 そして、
 幾多ものスタイルの違う格闘技が垣根を越えて戦うこと、それ自体がフィクションでありなおかつロマンであった時代があった。確実にあった。

 とある男が(多分ブチきれて)言った。
「ゴチャゴチャ言わんと誰が一番強いか決めたらええんや」
 決してそれだけが理由であったはずもない。けれど、そのときその言葉に動かされた男たちがおり、やがて大きなうねりとなった。
 UWFについて語ることは僕にとって手に余る。所詮僕も象をなでる群盲の一人に過ぎない。大体、僕自身がUWFを知ったのは第二次UWFからUインター、リングス、藤原組などに分裂したころだった。それ以前の試合はビデオや夢枕獏の「群狼の旗」で補完した形である。ここではRPGと絡めて話をする際に必要なことだけをメモろうと思う。

 UWFは結果的ではあるが型破りなプロレス集団であった。中でも立ち技のキック(それまでのリングには見られないシャープなもの)をプロレスに導入し、また、(それまでは決してメインとして注目はされなかった)グラウンドでの攻防をあえてリングの観客の前で見せた。それまで、道場内部で練習されながらも観客には何が起こっているかわかりにくい関節技は敬遠されていた、らしい。

 「プロレス」の攻防がある程度陳腐化していたリングにおいて、彼らの技は速く、殺気に満ちていた。単純に、これまでとは違う戦い方、試合の進め方は新鮮だった。
 そして、もうひとつ。
 “真剣勝負”であった。
 いや、そのアングルに親和性が高く、僕らもそれを信じ、そして、所属する選手たちもそうあろうとした。
 事実、途中からはプロレスであることよりも総合格闘技であろうとした。
 ゆえに、試合の意味が重かった。そこで繰り広げらたドラマは決して“ブック”などではなかった。と思う。

 もとより、真実がどうであったかは当事者以外わかりはしない。ただし、少なくとも当時の僕はそれを“真実”と信じた。他の団体で行なわれる試合に比べ、勝負の残酷さと切実さが僕には感じられたのだ。
 たとえとして適切かどうか微妙だが、恐怖映画にたとえるなら、UWFブレア・ウィッチ・プロジェクト、それまでのプロレスはシャイニングだろう。どちらも恐怖を伝えることに成功しているが、作り込みのなされた後者に対し、前者は稚拙なまま放り出すような画面や作り方で恐怖を喚起させる。

 このスタイル。特に“真剣勝負”を作り手も受け手も信じて物語を作り上げていく。
 D16にはこのスタイルがとてもあるプレイスタイルに似通っているように思われる。
 そう、D&D3版以降のパワープレイである。

 D&D3版はパワープレイを志向していると言われている。初期のDragon誌に掲載されていたPowerPlayというコラムはまさにその証だ。日本語版『プレイヤーズ・ハンドブック』3.0にはSean K Raynoldsの書いたそのコラムがあるので眼を通してもらいたい。
 誤解を恐れずに言えば、D&D3版やDragon誌のコラムでデザイナーサイドが伝えたかった彼らのパワープレイとは、
「セッションを成功させるため、ルールを最大限に活用してセッションに赴く姿勢」
であったのだろうと思う。
 追加ルールやサプリメントを縦横無尽に使うスタイルがパワープレイではない。
 コア3冊でもパワープレイは成立するし、山のようなサプリを使っていても吟遊詩人プレイは成立するのだ。

 RPGにおけるパワープレイは、“真剣勝負”というアングルを持つ。
 DMが提示する状況に対し、PLはPCを通じてそのレギュレーションで示されたルールを活用してその状況を乗り越えるために最善を尽くす。相対する2者が共通して持つのは明文化されたルールであり、それに基づいて判断がなされる。
 パワープレイと言うプレイスタイルにおいて最も重要な要素は、このDMとPLが共用する「明文化されたルール」即ち「レギュレーション」だ。互いにどこまでしていいのか、悪いのか。それが示されてよーいドンがかかって初めて“真剣勝負”が成立する。これがないゲーム、互いの共通理解が得られていないゲームは強調ナシ(“ ”なしの)真剣勝負となってしまい、放送できないセメントマッチ、さもなくば単なる泥仕合となる。
 団体乱立時、総合格闘技団体の交流戦がどうであったかを思い出せばいくらでも思い当たるところはあるはずだ。
 互いに、馴れ合うのではなく、競い合うこと。そのことを楽しむつもりなら使用ルールについて詰めておくことは必然なのだ。

 僕自身にとって、3版以前と以降でもっとも大きな違いはこのスタンスへの理解である。数多い選択肢が明らかでなかったときにはRPGをプレイするやり方、いわばリングの上での約束事は自明だった。もしくは、その場で「空気を読む」ことができればよかった。そして、そうした閉じたプレイグループでのプレイを選んでいればよかった。

 これは、D16が「ガラパゴス島的プレイ」で優秀なメンツに恵まれ、外界に出る必要がなかったからだろう。逆に、対外的なプレイ・コンベンションでのプレイなどが多ければもっと早期に気がついていたと思われる。

 手四つの体勢からタックルに出て、テイクダウンを奪い、ヘッドロックで絞り上げる。これをヘッドシザースで返され、スタンドでのヘッドロックを返される。これをロープに振り、帰ってきたところにドロップキック3連発。
 こうした流れを阿吽で行なえたのだ(技名わかんなくても別にいいです。UWFファンの癖に新日ぽいってのはほっといてくれ)。
 ところが、縁あってD&Dコンベンションに出たり、サークルの複数世代のメンツによる出入り自由のキャンペーンをやっていると、この「空気を読む」事自体が困難となる。自分が「読む」分にはまだいい。しかし、参加者に「空気を読んでください」と言うのは困難だ。最終的にこなれて「読めるように」なったとしても、最初の時点で「空気を読むこと」を強いたり、要求するのはセッション主催者のエゴに他ならない。
 いきおい、僕はキャンペーンのレギュレーションを示すほかなかった。

 共通理解を作ること、それを明文化してわかってもらうには、僕は二つの方法が在ると考えている。

  • 背景となる一貫したキャンペーン世界をそれとわかる方法で(プレイ前、もしくは最初期に)PLに提示すること。→イメージボードや詳細なキャンペーン設定の提示。
  • このキャンペーンでどのようにセッションを実行するかをPLに提示すること。→使用ルール、ハウスルールの明言化、提示。

 もとより相互に補完するものではあり、互いに一長一短ある。前者は「こんなものがある」と提示するものなら、後者は「これはできない」ということを提示する物だといってもよいかもしれない。
 そして、実際の作業量を考えたとき、効率的なのはたいてい後者だ。

 さいわい、「交流戦」はうまくいき成果も出せた。イキのいいグリーンボーイも獲得できたし、音に聞こえた強豪とも手合わせを行なえた。
 ルールについて綿密に接すること。それは決して負の印象のあるマンチキン行為ではないのだということを実感したのだ。
 そして、共通のルール基盤にのっとり参加者がひねり出してくるアイデアに悶絶したのも収穫だった。
 ルールは、少なくともD&Dというゲームのルールは決して想像力を束縛するものではなかった(この項、多分続く)。