卓上戦諸録(D16)

D16の卓上ゲーム記録

親密さの限界

 前エントリで書いたように、僕が極論として思い描くストーリープレイってのはどうも趣味嗜好がかなり共通していないと成立しないっぽい。さらに、付け加えるならゲームを離れた付き合いにおいても仲間であることが望ましい。
 理由はこうだ。
 
 物語の形式やパターンをなぞることを陳腐とは考えない。僕はそう言った。
 僕が萎えるのは、そのシチュエーションにあるとき、シチュエーションに応答を返す、彼の中の英雄像が単なるお約束のなぞりとして、現れてきてしまうとき、いわば安パイとして場に切られてしまう時だ。
 その安易さが透けて見えてしまうととたんにセッションの色彩が失われてしまう。
 いうならば、僕らはセッションの時、酔っていたいのだ。
 
 告白したなら、笑ってごまかされたくないだろ?
 抱きしめて髪に指を通したなら、息を呑んでもらいたいだろ?
 たとえ、演技だとしても、感じてるフリくらいはしてもらいたいわけだ。 
 
 もちろんこれは、二重の刃だ。
 
 彼が知らず導き出した彼の英雄像が、参加者にとって受け入れられないものである可能性は“常に”ある。
 真実彼自身が、自分の言葉として搾り出した言葉が、それでもやはり許せないものである可能性はある。それに対して醒めてしまう、萎えてしまうということはどんな意味を持つのか?
 
 さらにいうなら、そんな風に一度でも距離を感じてしまった時、ゲームを離れて付き合うことに何か影響を及ぼさないと言えるのか? 
 
 こんなのはだれかれと無くできる遊び方ではない。
 みっともないところを含めて見せられるような仲間、身内ぐらいにしか出来ない遊び方だ。
 
 異常なことを言っているのかもしれない。たかがゲームなのだ。そこまでしてすることじゃない。そんなエクストリームな楽しみを求められ、人格についての判断までされてたまるものか。
 無茶言うなや。である。
 
 この楽しみは多分、公言すべき類のものではない。やり取りの中でゲームを超えて互いの個性にまで踏み込み、没頭する。醍醐味には違いないが、誰もがそこに至る事が出来ないというのであれば声高に言い立てるだけ“野暮”ってことだ。
 
 ただし、1つ確信がある。
 これを経験したヤツは、多分RPGを飽きない。
 環境が変わったりして、遊べないことがあったとしても、自発的にRPGを卒業はしようとはしないだろう。それほどに麻薬的な体験だと僕は思う。
 けっしてRPG人口のすべてがこれを体験すべきだなどとは思わない。いや、1%にも届くかどうか、わからない。だが、こうした“物語の経験者、目撃者”は極致としてのセッション、何もかもがうまく行ってしまったセッションがあることを知っていて、そのことを伝えることができる。堂々と胸を張って“RPGってすっげーおもしろいぜ”と言える。
 そして、そのうちの何割かは、それを再現しようとDMになったり、ヘビーユーザーになったりとこのジャンルを担いうる存在になる。
 
 そして、D16自身もそういう魔境を見てしまったゲーマなので時折、ハメをはずしたくなるのだ。