卓上戦諸録(D16)

D16の卓上ゲーム記録

Aマホの感想(1)メタゲーム的思考について

 “恣意的判断”についての収斂進化。
 Aマホのシステムとして目を引くのはその判定系だろう。
 成功要素の提出→抽出、前提変換による難易度引き下げなど、基準となるところが大きくSDの判断による。特に、成功要素の“提出→抽出”はSDの判断による、それに対して一意となる基準は、PLとDMが共通で読む製品としてのルールには示されていない。

 具体的に言おう。
 “剣を構えたオーク鬼の脇をすり抜けて移動する”

 この行動は、D&Dの場合には

 “中型サイズの敵の機会攻撃範囲内を、機会攻撃を受けずに移動する”行動であり、敵が『モンスター・マニュアル』のオークであるなら、〈軽業〉技能の記述により、判定は“1d20+〈軽業〉技能修正値≧難易度15”

とルールで規定される。
 これは、D16の元で行なっても、デザイナMonte Cookのマスターのもとで行なっても(すなわちマスターが同一人物でなくても)、また超小型サイズのピクシーが行なっても超巨大サイズのティタンが行なっても(行動の主体が誰でも)同じ判定で処理できるということであり、これをもって「定型処理が効く」とひとまず言っておく。

 一方Aマホであれば、(行動の主体であるキャラクターの根源力や、そのセッションの判定単位はとりあえず置いておいて)件の行動に対しては、プレイヤーが置かれた状況の確認を質疑応答で行ない、そして手持ちの成功要素を提出、SDの抽出、成功判定ということが行なわれる。そして、この各手順においてSD個人の判断が大きく影響する。

 数値的な基準は、難易度5が“1人で苦労しながら解決できる”といったように基準こそ示されているが、個々の状況に応じてSDが実際の値を判断し難易度を決定する。
 提出された成功要素のどれを抽出するかはSDの判断による。

 個々の状況による誤差を置くとしても、特定状況において、芝村氏のSDでは抽出された成功要素が、切夏氏のSDでは抽出されなかったりすることがある。そして、それを当然としているのがこのAマホのAマホたる由縁だろう。
 イントロダクションのスペックで“定型処理能力:水準よりかなり劣り、最低水準にある”と自ら示すだけのことはある。

 時折見かける“口プロレス”という言葉は、こうした定型処理がきかないSDの判断に対し、説得力のあるように成功要素を提出する作業を揶揄するものだろう。

 判断の基準が、プレイヤーとマスターの共通理解である“製品としてのルール”に示されていないなら、行動の成功判断の基準がマスターにあるのなら、ゲームの根幹である、
 “キャラクターのビルド、リソース投下のタイミング判断、そしてその結果の適用”
 のいずれの段階にも、PLは見当をつける事ができない、信が置けない、何を根拠に行動してよいかわからなくなる。

 “製品としてのルール”に根拠となる情報がないなら、PLはセッション時のマスターの言動や判断基準その他のゲーム外の情報を読み取って行動するという、メタゲーム的思考、メタゲーム的判断を行なうようになる。そして既存のゲームではこうしたメタゲーム的判断を良しとしてこなかった。
 『ダンジョン・マスターズ・ガイド』の該当箇所を引用しよう。

 「読めたぞ、落とし穴の反対側に罠を解除するレバーがあるはずだ」と1人のプレイヤーが言い出した。「どうしてかって? このDMが解除できない罠なんて作りっこないじゃないか」――これは“メタゲーム的思考”の一例である。プレイヤーが“これはゲームなんだからこうだろう”というロジックでキャラクターの行動を決めたら、これすなわちメタゲーム思考である。これはロールプレイの興を削ぎ、ゲームの現実感を損なうため、避けねばならない行為である。
 メタゲーム的思考の裏をかいてプレイヤーたちを驚かせてやろう。たとえば、落とし穴の向こう側にレバーはあるが、錆び付いて使い物にならなくするのである。プレイヤーたちの緊張感を保つこと。そして、いらぬ考えをして失敗しても文句は言わせないことだ。そしてDMの流儀でなくゲーム世界の流儀で物事を考えるように諭すこと。ゲーム世界において、ダンジョンの罠というのは誰かが何らかの意図をもって仕掛けたものだ。君がそれをふまえて罠を配置すれば、PCたちもそれをふまえて行動するようになるだろう。

 『ダンジョン・マスターズ・ガイド』では問題を“ゲームの現実感を殺ぐこと、ゲーム世界の流儀で物事を考えなくなること”においているが、D16が考える限り、メタゲーム的思考にはもう1つ問題がある。
 その問題とは、“ゲーム内ルールの適用で行なえること、処理”と、“ゲームルール外の判断で行なえること、処理”のダブルスタンダードをマスター側が提示してしまうということだ。そして、それによる判断基準の揺らぎが生じることである。
 A状況においてはゲーム内判断、B状況においてはゲーム外判断という風にであっても固定されているならまだいい。が、A状況において、あるときはゲーム内判断あるときはゲーム外判断で裁定(およびその基準)が下されるとなったら、参加プレイヤーは何を基準として行動してよいのかわからなくなる。
 始末の悪いことに、このメタ判断をもって“粋”とみなしたり、その技術を“空気を読む技術”としてテーブルテクニックととして要求し始めたりすると、ついていけない人間にとってはセッションははなはだ不愉快なものになる。自分の取った行動はうまく行かないが他者のとった行動はうまく行き(同じような行動なのに! )、しかもそれを解決するのに、“空気を読め”とか言われる。

 

#やや脱線。僕は、ツーカーの仲になったプレイグループで“明文化されないやり取り”、“メタ判断”が生じ、その雰囲気を楽しむこと自体は一切否定しない。つか、大好きだ。
##けど、それが“粋”であるというなら、他人にそれを強制することやついてゆけない人間をプレイグループに生むという、“無粋の窮み”をどう思うのかと問いたい。
###“粋”なんて言葉、そもそも口に出した時点で“無粋”だろうがよ。