卓上戦諸録(D16)

D16の卓上ゲーム記録

[葵]

 
 こいつらは莫迦だった。
 女子高生は喧嘩をしないと思っている。
 
「門限はいいんですか?」
 ご丁寧に、声をかけてきたのは灰色のスーツ姿の男。
 連れの作業服のニキビは黙って彼の後ろにいる。
「帰った方がいいですよ」
 もう一度スーツが言う。
 あたしの腹は決まっていた。腹に固まった戦いへの決意、隠そうともしていないんだから、その匂いを感じられないこいつらは間違いなく莫迦だった。
 あたしは同級生の那宮涼の姿をもう一度確認した。皮ジャンの男に襟首をつかまれている。学生服に土埃、頬にはあざと擦り傷。
 男なら大丈夫。
「おい、やる気らしいぜ、この嬢ちゃん」
 誰かが呆れたようにつぶやいた。
 ……遅いって、気づくの。
 あたしは、踏み込んだ。
 
 その日あたしは上機嫌だったと思う。
 練習の汗はシャワーで流していたし、春の夜風は暖かかった。
 五分ほどにほころんだ桜がかすかに香り、そして、帰りに立ち寄った酒屋にはちゃんとギネスが置いてあった。
 加えて、レジのおばさんはあたしが霞城三校の寮生なのを知らなかった。
 おかげであたしは父の晩酌と偽って自分の分のアルコールを楽に手に入れられた。
 今宵の月は十三夜。
 寮の近くの公園では多分、滑り台の上が特等席だろう。なにより、その滑り台にはそばに桜が生えている。
 何もかもがあつらえたようにぴったりだった。
 こんな宵にしらふでいるなんて、高校生だろうが、帰り道だろうが、制服のままだろうが、罪なこと。そう思う。
 つまりだ、あたしは年甲斐もなくスキップするくらい上機嫌だったのだ。
 那宮涼を見つけるまでは。
 
 あたしの踏み込みに反応したのは、作業服のニキビ。
 無造作に腕を伸ばしあたしの肩を突き飛ばそうとする。
 あたしは外腕刀で予想通りに捌いた。
 ち。
 ニキビの下腕の内側があたしの肌を掠める。瞬間、その肌から、雑多な思考とともに次の動きが鮮明に溢れて来た。
 ……襟首をつかんで引き回し、腕取りから立位での背面腕固め。
 ニキビの思考の中のあたしは、安いエロ本のモデルのような喘ぎ顔をしていた。
 コンマ数秒に満たないイメージだけど、あたしの嗜虐心に火をつけるには十分だった。
 捌いたニキビの手首から先を開いた手の甲で引っ掛ける、力の向きをそらすだけの操作。
 あたしは身体を開いてニキビの内懐に入りつつ、自由な方の手の掌底でニキビの顎を突き上げた。
 がつん。
 音がした。
 顎が無理矢理噛み合わせられる音だ。
 ずん、と打撃の衝撃があたしの体を通って、踏みしめた足の裏を抜けていく。力線が徹った(とおった)感触。頭蓋を支える僧帽筋が、徹り抜けた力積のあとを追うように、膝蓋腱反射の応答速度で弛緩する。
 あたしには演武のように残心をとる余裕もあった。
 状況を確認する。皮ジャンが那宮涼の襟首を離した、スーツの方はまだ驚いている。
 「先」はまだあたしに有る。
 そして、たぶん、
 あたしは笑っている。
 
「仲間か!?」
 那宮涼から手を離して、革ジャンがあたしに呼びかける。
 ……今ごろ聞かないでよ、そんなこと。
「関係ない……、手を出すな」
 うまく回らない口で那宮涼は言った。
 顔には、『来るな馬鹿』と書いてある。友達がいのない奴だ。もっとも、「手を出すな」ってせりふはあたしに言ったのかもしれない。
 でも、すまないね。那宮涼。
 あたしはいま絶賛稼動中なんだ。
 
 間抜けなことを聞いた割に、革ジャンの行動はなかなかのデキだった。あたしに向けて那宮涼の体を突き飛ばす。もちろん、その後から重ねて殴りにくるハズだ。
 突っ込んでくる那宮の手首をあたしは掴んだ。同級生の混乱した身体感覚の中から、肉体の動線と力線を選別して拾い取る。
 あたしにとっては慣れ親しんだ感覚。動線と力線からバランスを読みとり、崩し、倒す。それこそあたしが習ってる技術の基本動作だ。
 師匠ならここまで崩れた体勢からも力線を操作し、バランスを回復させるなんて芸当をやってのけるが、あたしにはそんな余裕はない。
 なるべく痛くないように投げてやることにする。
『待てーっ!』
 掌越しに那宮の驚きが伝わってきたが、学校で格技の授業をまじめにやっていれば痣程度なので構わず投げた。
 あたしの意識はすでに他の二人を捉えている。皮ジャンは那宮の後ろから踏み込んでくる。打撃。視界の隅でスーツが腰に手をやった。得物?
 ざっ。
 皮ジャンの踏み込んだ足が土埃を巻き上げた。
 
 回転系の軸足+打撃≒廻蹴。
 
 相手の足が露出していれば受けてから掴むところだが、あたしは服越しには感覚を拾えない。
 だから、ガードしつつ半歩引く。
 あたしの足があった所を皮ジャンの蹴足が通過した。
 引いた足を戻して皮ジャンの裏に出る。蹴り足とバランスをとるために振られた手をあたしは無造作に掴んだ。そして拾う。
 軸足の拇指丘に支持点。体幹、腰の辺りにたわむ力線。上体の上3分の1の位置で回旋する慣性。
 ……回転を殺さず、ソバット気味に後廻蹴。
 コンパクトに振りぬいた踵があたしの水月を捕らえる絵と感触のイメージが閃く。女子高生の腹に蹴りを入れる感触をこの革ジャンは、欲情交じりに期待している。
 打撃屋ってのはいい気なものだ、相手のことなど構いなしに当身が入るイメージだけを描く。
 だけど、あたしのような相手にはいい鴨だ。
 軸足に体重が乗る、力線の始まりがあたしにははっきりとイメージとして観えた。だからその力線の方向を変えてやる。具体的には裏にいる革ジャンの襟首を引っ張り、片膝を抜いてやる方法で。
 半眼にしたあたしのまぶたの裏、皮ジャンの力線が地面から離れた。それを追うように軸足が釣り合いを保てずすっぽ抜けた。
 あたしは片膝立ちのまま最小限、後頭部に手を添えて地面への直撃を防いでやった。この勢いで背中から落ちれば十分に動けなくなる。
 それに、
 かちゃん、と金属の音がした。
 スーツの男の手には伸縮式の特殊警棒が握られていた。
 
「お前!山連の票師か!」
 スーツは何か訳のわからないことを言っていた。
 が、あたしはそれどころじゃなかった。得物を持った相手とやりあうのは言うまでもなく苦手だ。
 師匠は手足の延長と思えば対応できるというけれど、あたしにとっては相手のリーチが長くなり、しかも掴んで意味がないとなると、とんでもなく広いにくい。
 闇雲に振り回す。それだけで近づけないのだから、どうしようもない。
 あたしの中で高速打算回路がフル稼働した。
 こんなとき師匠ならどうする?
 あたしが手を添えた頭がごろりと転がり、改めて苦悶のうめき声を上げた。
『得物持ちとやりあう奴は馬鹿だ。だが、そうも言ってられないなら、俺がいつも教えていることを思い出せ。まずは何か投げるんだ。何でもいい、小銭、かばん、ペットボトル……』
 なんも持ってないってば。
『でなきゃ、とにかく気をそらせ。得物を持っているときにはたいていその得物に自分の集中力が縛られてしまう、引っ掛けにはかかりやすい』
「ねぇ、この辺でよしとかない?あたしもあんた達が友達を放してここを立ち去ってくれるなら、これ以上何かする気ないよ」
 スーツは答えない。目を離さない。値踏みするようにこっちを見ている。
 やばいな、こいつら慣れてる。
 あたしは言葉をつないだ。
「知り合いが何をしたかは知らないけれど、話してわからないことじゃないでしょ」
「あ゛……う゛……」
 呻き声の二重奏。
 あー、うん。今のはあたしの言うセリフじゃなかったかもしれない。
 あたしは片膝をついたまま、苦しんでいる皮ジャンの襟首をとって、盾に取った。けれど時間の問題だ。さっきのニキビとここの皮ジャンが回復したら、こんな相手していらんない。
 戦いは洪水だが喧嘩は潮だ。
 潮時を掴んで、この状況から離脱したい。
 そのときだった、
「もしもし、警察ですか?」
 苦しげな声でそう聞こえた。とっさに声の方向を見る。那宮涼が耳に手を当ててしゃべっている。
 携帯!?
 スーツの視線が釘付けになり、那宮涼に向かって踏み出す。
 けれどあたしはスーツよりも一拍早く視線を戻していた。それは十分な時間だった。
 
 低い態勢からスーツめがけて飛び込んだ。踏み込みだけじゃ距離が足りないから飛び込み前転してイッキに詰める。
 あたしの動きにスーツの首が反応したときには、あたしはスーツの足元にいた。
 足首を掴む、こいつがハイソックスを履いていなくてよかった。ざらりとした脛毛の感触にウンザリしたけど、触った瞬間にスーツの力線が拾えた。
 大腿四頭筋、アキレス腱が緊張する。取っていない側の足がバランスをとるために一歩後ろに踏み出される。踏み出した足に力線が発生する瞬間、あたしは空いた手でスーツの上体を押し込んだ。力線が滑って、地面から離れた。
 ど、ごンっ。
 最初のど、が背中から倒れる音で、ごンっが後頭部を打つ音だ。
 いい、音だった。
 今度ばかりはフォローが間に合わなかった。ごめん。
「武器なんか持つからよッ」
 言ってみたものの、後味が悪い。大丈夫かと歩み寄ろうとしたとき、
「葵!逃げろ!相手が悪い」
 そういって駆け出す那宮涼の姿が見えた。こいつ、潮時を見る眼は一流だ。
 あたしは、荷物を持って駆け出した。
 もちろん、ギネスも忘れずに。
 
 高校一年の春、那宮涼とは知り合って一ヶ月もたってなかったが、結局この晩が決定的だった。
 あたしの師匠は言っていた。
『技に巻き込まれたなら、全力で受身をとれ。間違えるな。受身は身を守るためだけの術じゃない。次の攻めへの第一歩だ』
 あたしは多分、この晩にようやく受身を取れたのだ。