卓上戦諸録(D16)

D16の卓上ゲーム記録

TRPGと一年アニメについて。もしくは(後略)(3.0)

(3)D&Dにおけるキャンペーンゲームの面白さ、その本質は一体何なのか
 D&Dの特徴はキャラクターが成長できるところにある。そして、その成長の“どの段階でも十分に”遊ぶことができるというのがすばらしいところだ。
 ぽっと出の村の若い衆が経験をつんで行き、最終的に多重次元をまたにかける大冒険をし、いくつもの国を滅ぼしまたは興すような冒険ができ、そのルールが破綻していないというのは実はすごいことなのだ。そうでなければ、キャンペーンゲームをしゃぶりつくすことは出来ない。
「昔できなかったことが、できるようになる」
 極論すれば、D&Dの楽しみはこの一行につきる。
 この楽しみを実感するには、どうやっても2本の冒険が必要なことは明白だろう。昔行なった冒険と今行なっている冒険の2つだ。
 だが、実のところ(そしてこれがD&Dのすげーとこだが)それ以上のものは必要なかったりもするのだ。
 シリーズ構成も、伏線も、キャラクターの複雑な過去も、思わせぶりなライバルキャラも、PC同士の絡みも何もかも。
 
 必要ない。
 
 D&Dにおいて大きな物語≒キャンペーンを構成するのには、複数の冒険、およびその冒険に連続して参加するPC以外のものは必要ないのだ。
 
 ひたすら穴にもぐってきた連中ならわかるはずだ。
 その辺の演出なんてものは、冒険の状況とそれに対するPCの対応によってプレイヤーたちの意図とは関係なく演出されてしまうってことを。
 出てほしくないときにでる1や、ここぞと言うときに出る20。どんなに高いレベルでも即死呪文には弱い誰かや、気がつくといつもドラゴンの足元にいるウィザード、落とし穴が大好きではまらずにはいられないシーフ。
 これらはすべて、数多く冒険を重ねるうちに自然発生する物語であり、演出だ。
 
 D&Dは単純な“洞窟探検ゲーム”として優れている、単にもぐるだけでこれだけのことが起こる。そして、このゲームは拡張性と継続性に優れている。
 ゆえに、
 長く遊べば自然とそれは“大きな物語”を形成してくれるのだ。1年52話遊べばわかる。
 そして、プリキュアのようなヘタレた脚本と違い、毎回挑戦し甲斐のある課題が用意できる。
 
 D&Dのキャンペーンゲームの面白さ、それは、
「昔できなかったことが、できるようになる」という成長を実感できること。
「積み重ねたシチュエーションにより自然に作り出された細かな物語のかけら、それらが繰り返しによりかけがえのないPCたちの物語になること」 にある。
 
(補足)キャラクターの作り込みはもちろん楽しい。しかし、1から育てたキャラクターとはまったく別だ。「何かをするためにレギュレーションの中でチューニングを重ねる」楽しみと、「今ある状況から次にするべきことの為にチューニングを重ねる」楽しみはキャラクターのチューニングをしながらもまったく別の考えに基づいていることに注意しなければならない。
 
(補足さらに)連続した冒険と参加するPC以外の要素が必要ないといっているわけでは、もちろんない。適切な準備や仕込みがなされたキャンペーンは間違いなく面白くなるだろう。ここで言いたいのは、D&Dというゲームが、もっとも単純な形・労力の少ない形のゲームですらキャンペーンの体裁を成し得るということである。