卓上戦諸録(D16)

D16の卓上ゲーム記録

真剣勝負って何よ?

 あらためて。
 D16の言うところの“真剣勝負”ってーのはどうも、気心の知れたもの同士で作った、大変好みの幅が狭い共有世界でのPL、PCとしてのやり取り、らしい。
 
 で、それってどこがどうストーリーよ?
 
 思うに、
 自分が考えるストーリープレイというのは参加者各自の中にある物語のぶつけ合い、なのだ。
 何か一つのシチュエーションが起こったときに、それにどのプレイヤがどのような応答を返すか。
 同席する参加者はその応答に返した彼自身の物語に対するスタンス、倫理に関するスタンス、美学に関するスタンスを見てしまう。
 
 そして、そこに感動できてしまうことがある。
 
 応答を返した彼の考える英雄像がそこに実現されてしまい、そこに同席したものたちはまさしく英雄の傍らにいるという感動を得てしまうことがある。
 
 僕はこれがストーリーだと思う。結果や過程がたとえありふれたものであっても、感動できてしまう、ハズだ。
 別に物語の形式というか、これまでに繰り返されてきたパターンをなぞることを陳腐とは考えない。物語として複数人が共通して理解できるシチュエーションはやはり有限だと思うからだ。*1
 
 そして、その物語の実現に必要なのは、ギリギリの緊張感を強いる状況と、その上でなお世界観に対するゆるぎない信頼だだと僕は考える。
 真剣な判断の元で下される決断、搾り出される言葉によりPLは英雄として、主人公として世界に働きかける。
 そのときPLは、共有世界そのものの総意たるDMが、この物語を悲劇であれ英雄譚であれ満足のいく物語にしようとしていると信頼している。ただの無常な審判者ではない、物語を完遂させるために世界を運営してくれているはずだと言う確信がPLにはある。
 
 この信頼は決して出来レースを志向してはいない。
 PLはDMを信頼しているが、それは冒険や試練が失敗することも含めた信頼である。その失敗も満足いく物語になるはずだと言う信頼だ。
 
 こうして結果として残る物語は、たとえそれがありふれた陳腐な物語であったとしても、間違いなくそのプレイグループによって作られ、体験された紛れもない英雄譚であり冒険譚となる。そして参加者はその物語が紡がれた場にいたこと、自らがその英雄であったことを誇りに思い、感動することができる。
 
 ストーリープレイとは結果的には、こうした感動を得ることを目的としている、ようだ。*2

*1:若干話はずれるが……。読者の中に、“捕らわれたお姫様を救いに、悪の巣窟に行ってドラゴンや悪い魔法使いを倒して、見事救い出しました”という、手垢で真っ黒になったようなシチュエーションを実行した経験のある人はどれだけいるだろうか? 僕はあるが、実のところ、とてつもなく燃えた

*2:#簡単に補足。こうするためには世界観を共有することが必要であり、そのための一番確実で簡単な手段が基礎的なパワープレイ(というかストイックなゲームプレイ)の素養だと思っている。世界観をゆるがせない為には、その世界の約束を知り、それに従って(というよりもそれを血肉として)行動できなければならないはずだからだ