卓上戦諸録(D16)

D16の卓上ゲーム記録

Dungeoncraft

 この間訳した文章を読み返して、ふと思い出したものがあった。
 2版末期ごろからD16はDragon誌を買い始めたのだけど、その中の記事でえらく面白かったのがRey Winningerって人が書いてたDungeoncraftって記事。マスタリングに関する徹頭徹尾実用的なハウツー記事なのだが、研ぎ澄まされた実用具ってのは、思想に通じるものがあるのか、実務以上の“マスタリング論”がそこにあった。
 身内に読ませるつもりで抜粋して抄訳したのがあったので再録してみる。

DungeonCraftについて
 DungeoncraftはDragon誌255号から290号まで連載されたDMのマスタリングに関する実用記事であり初心者のDMが順を追ってキャンペーンを行えるようにStep-by-Stepの形をとって連載された。
 この連載期間の間にD&Dは二版から三版へと版を変えたが、その内容は版に関わらず、ほかのRPGにおいても有用な記述に溢れている。(255〜273までが二版、274以降が三版に対応)
 そして280号以降はそれまでの内容をもとに3版を用いてオリジナルのキャンペーンセッティングを1から作成しており、既存のセッティングではなく独自のワールドを作ろうとするDMの参考となった。
 この連載において示されたマスタリングの要旨は以下の6つの原則からなる(後に特集としての293号において第七の原則が示された)

      1. DMは(キャンペーンを行うに当たって)無理をして、実際に必要とされるよりも多くの設定を作ってはいけない。
      2. キャンペーン世界において大きな意味を持つものを設定するときはいつも、そこに少なくとも一つは秘密を組み込む工夫をする。
      3. 何かが起こってその結果をDMが決定しなければならないとき、そしてその決定について決めかねるのであれば、そのチャンスは常に50%(半々)にしておくべきである。
      4. 良い冒険というものは常に、プレイヤーとプレイヤーキャラクター双方に対する挑戦であるべきである。
      5. してしまったことは、なされてしまったことである。(訳注・一度裁定しゲームを進めたならば後戻りすべきではない)
      6. 単純で見分けやすい個性こそがNPCを演出する最上の道具である。
      7. 良質のキャンペーンゲームを行うことは「世界」を作ることであって「物語」を作ることではない。

 以降、293号の特集記事「Countrycraft」より、D&Dのキャンペーンについて、及びD&Dというゲームについて述べた部分を抄訳にて訳出する。

 以下記事。
 
 多くのDM(特に他のRPGを多くプレイしたDM)はキャンペーン・ゲームで“世界”ではなく“物語”を工夫しようという間違いを犯す。つまり、捻ったプロットや込み入った動機づけのNPCを用意した上で、PCを劇的なクライマックスの遭遇に誘導しようとするのだ。野心的な手合いには、映画や文学上の演出手法……前兆を示したり、場面転換を用いたり、背景の物語を語ったりして、その冒険を洗練された、文学的な雰囲気を出そうとするものもいる。彼らはこうすることで素晴らしいファンタジー小説、映画と同じくらいの感動を与えるキャンペーンを行おうと考えるのである。
 言うなれば、彼らにとって「世界のあり方」とは「物語を語ること」に対して従属するものなのだ。物語が先にあり、世界はその物語を支えるために作られる。
 このやり方の最大の問題は、これでは参加するプレイヤーからあまりにも多くの責任を奪ってしまうということにある。よいD&Dキャンペーンとは、プレイヤーが自分の物語を見つけ、そしてその物語を成し遂げてゆくものであるべきなのだ。結局のところ、D&Dの最大の魅力はプレイヤーが彼ら自身の手によるキャラクターを作成し、そのキャラクターによって一連の挑戦に挑むこと、そしてそれが可能であるということなのである。タイトにプロットが組まれたゲームではプレイヤーが、本当に行いたいことが行なえないことがある。その代り彼らはDMが用意した手の込んだプロットが計画どおりに解決されるよう、DMの望む事を遂行するように強いられるのである。
 
(例示を略:本文では例としてPCの一人がパーティを裏切るために、捕らえられ洗脳されるというシチュエーションをあげている。つまり、このシチュエーションではDMは、そのPCの洗脳を解くため、パーティが新たなクエストに向かう事を望んでいるのだ。
 また、DMはこの状況を作り出すことで、裏切りを行うPC(実は過去に友人に裏切られたと設定されている)が自問自答するというドラマティックなロールプレイを行う機会が与えられると考えている。
 しかし、そのためにはDMはあまりスマートとはいえないやり方で「裏切ることになっている」PC及び「裏切られた」パーティの行動を誘導しなければならなくなると述べている)*1
 
 このようなキャンペーンでは、自分たちの決定がキャンペーンゲームに対して、実際に影響を及ぼすのかどうかとプレーヤーが疑い始めるまで長くはない。最悪の場合では単にDMがプレーヤーに小説を読み聞かせ、そして時折、次の章に行くためにさいころを振ってくれるように依頼しているように感じられるだろう。(また、その結果がDMの望むとおりでないなら、さいころの出目すらなんとかしてごまかされるかもしれない)
 もちろん、このスタイルのプレーをしているDMがすべて、例で示したように無様だとは限らない。非常に熟練したDMなら、仮に実際に台本通りに進んでいるのだとしても、決定をすべてプレイヤーが下しているとプレーヤーに信じさせることができるだろう。しかしながら、こうした稀な成功例においてすら、D&Dというゲームの精神は朽ち始めているのである。*2
 D&Dの本質は、プレイヤーに、自分がなりたい誰かになることを許し、そのペルソナによって、一連の面白い挑戦に向かってゆくことにある。
 D&Dのルールはそのようなプレーヤーを支援し、かつ多くのオプションがプレーヤーに託されるように設計されている。従って物語指向が強いDMであっても、結局のところ、物語を語るための有用なツールとしてルールを使用するのではなく、実際のゲームでルールがどのように働くか考えることにより多くの時間を割くことになる*3
 結局の所、楽しいゲームを目指すことと、素晴らしい物語を目指すことは必ずしも同じものでは無いのである。
 だからといって、偉大で忘れがたい物語があなたのD&Dキャンペーンから発生しないだろうということではない。それは可能だ、そして、起こるはずだ。重要な違いは、DMはプレーヤーが自分の物語を見つけることを認めるべきということなのだ。(強調引用者)DMが望む所の「捻ったプロット」は、常にプレーヤーが自由に行動して、行動を決断した、その結果として発生するべきなのだ。このプロセスを逆にしてはならないし、事前にあつらえてあった「捻り」を正当化する行動をプレーヤーに強いてはならない。
 これによりDungeoncraftの第7のルールが導かれる。

 Dungeoncraftの第7のルール:よいD&Dキャンペーンとは、物語(ストーリー)を構築することではなく世界(ワールド)を構築することでなされるものである。

 これまで例に挙げたような失敗を回避する最も簡単な方法は、あなたのD&Dキャンペーンを一つの物語ではなく一つの世界として考えることである。あなたの世界の創造を、一種洗練された蟻の飼育のようなものと考えてみて欲しい(PCが彼らに会おうが、彼らの邪魔をしようが構わずにそこで住人が毎日生活している)。設定を作って、世界の住民をおき、その住民たちの希望および要望に関して考えてみることだ。それから、いくつかの状況を導入し、あなたの作り出したもの達がどう反応するか決定し彩りを添えるのだ。
 このポイントは重要なポイントである。
 
 よいDMは常に「プロット」ではなく「状況」を作るのである。(強調引用者)
 
 「状況」とはは単なるセット・アップ-単純な事件や出来事-である。一方で、「プロット」とは、「状況」への反応として生じる一続きの出来事である。

(途中中略:本文では例としてキャンペーン世界に魔法の金属を含んだ隕石が落下するという「状況」を示し、「状況」と「プロット」の違いについて述べている。
(#「珍しい魔法の金属を含んでいる隕石が惑星に衝突する」→「状況」の例)
(#「邪悪なカルトが、その魔法の金属をPCの一人の精神を支配するのに用い、それによって近くの王国に対して反乱を起こさせるように仕向ける」→「プロット」の例)
(つまり、「状況」から始めると、それに対するPCのアクションに応じてDMがリアクションを行う事を段階的に進めていってゲームが展開できるのに対し、「プロット」ありきで始めるとあらかじめ決めておいた流れを壊さないようにイベントを操作する必要がある事を示している)
(この隕石の例の場合、隕石が落下するという「状況」を導入する事をDMが決定したならば、DMはキャンペーン世界の多くのNPC及びパワーグループがどのように対応するかを考える。この時に先の邪悪なカルトがその目的のために隕石を得ることに興味を持っていると決定しても構わない。それならば、そのカルトの首謀者が落下地点に向かっておりいると決めて、次に何が起こるか判明してから次の行動を決定するというようにきめておけばよい)
(PCは隕石について知識を得て調査しようとするかもしれないし、しないかもしれない)
(PCは、最初に衝突現場に着くかもしれないし、着かないかもしれない)
(もしもカルトの信者が金属を手に入れて、PCが現われれば、カルトの信者はPCのうちの一人にそのコントロールする力を使用しようとするだろう。その試みは成功するかもしれないし、失敗するかもしれない)
(仮にプレーヤーが隕石をまるきり無視することにしたならば、カルトの信者は疑いなく目的を遂行するためにその魔法の金属を別のやり方で使用するだろう。そしてPCがこの新たな陰謀の噂を耳にしたとき、彼らはそれに関して何かをしようとするかもしれないし、しないかもしれない)
 例で示した「状況」からはこうした、全ての種類の面白い物語が導かれるのである。
 よいDMというものは、プレーヤーが現在の状況へどう反応するか、そしてNPCおよびパワーブロックがどう反応するか推定するまで、任意の1つの結果を決定しないのである。そして、このやりかたにより、そのキャンペーンでの出来事は有機的に関連性を持って発生するようになる。ついには、世界自体がそれ自体で動いているように感じられるようになるかもしれない。ダンジョン探索がD&Dの冒険の中心となるのはこのためである。ダンジョンはこの種の「状況」のアプローチを行うための優れた手段なのだ。毎ターン、プレーヤーはドア、廊下、通路に直面し決定を行い、その後にのみ、DMは決定を行い、次に起こるか明らかにするのである。
(以下略)

*1:訳注:例がやや作為的と感じるが、あくまで“失敗しがちな例”としているのでいいんだろう

*2:訳注:この一節を読んで胸がスカッとする人は、逆に自分がD&D原理主義に陥っていないか自問自答するべきかもしれない(笑)。とはいえ、D&Dがもともとこの例で示されたような遊び方を目指してデザインされていないというのも事実だ

*3:訳注:ゲームの機構が目指す所のものを素直に使った方が楽ってことだろう。