卓上戦諸録(D16)

D16の卓上ゲーム記録

トップ・モデルを履いた裏山のスキーヤー

 本論に戻ります。
 先ほどD16は「国内のD&D環境は決して楽観視できない」と述べました。その根拠としてあげたのは製品シナリオの少なさです。製品シナリオの翻訳が少ないことで一体どのようなことになっているのでしょう?
 1つには、D&D本来の性能が発揮される冒険」をユーザが体験できないということです。
 D&Dが扱う冒険の舞台は空間的(海洋、極地、山岳)にも、文明的(ヨーロッパ風ファンタシィ、中近東説話、ゴシックホラー風味、カンフーアクション、パルプ小説的秘境アクション)にも、概念的(『神曲』や『甲賀三郎説話』のような宗教的異世界)にも広大です。
 一応言っておくとここで挙げた例は基本3冊で十分対応できます。(それ用のサプリももちろん出てますけどね)
 海外ではDungeon誌やWoC社のサイトからダウンロードできるシナリオなどによって、こうした冒険がシナリオとして発表されており、その多彩さは素晴らしいものがあります。
 さらに、D&DというゲームはPCのレベル帯によってまったく異なる様相の冒険を遊べます。よく言われることですが、ファイアーボール以前以後、テレポート以前以後でまったくプレイ感覚が変わり、それでもなお世界は連続しているのです。
 
 ありていに言って、独学だけで遊びつくすことはほぼ不可能ではあんめぇか、とD16は考えます。
 
 けれど、日本ではこうしたシナリオ≒判例集、レシピ集が無いために、日本語環境オンリーのユーザはD&Dというジャンルのごく一部でしか遊べない。
 数々のサプリメントはキャラクターに多彩な冒険を可能にする道具ですが、その(パワー・ゲーム的な意味ではない)道具の使い方が広まっているとは言いがたい。
 
 国内のD&D環境を例えるならば、レーシング・モデルのスキー板、ビンディング、靴を揃えた上で裏山のリフト一本のゲレンデを繰り返し滑るという状況でしょう。
 確かに、板(コア・ルールブック)もビンディングやスキー・ウェア(各種サプリメント)も素晴らしい水準のものが揃ってます。しかし、滑っているゲレンデは狭く(多様性に欠ける)距離も起伏の激しさも物足りない。
 スキー(D&D≒RPG)というジャンルを定着させ、ユーザを育てるにはそれらの道具(ルール)の性能を十二分に発揮させるゲレンデ(冒険の舞台≒製品シナリオ)が不可欠なのです。
 そのゲレンデも難易度にコースの長さ、対応レベルが多様なものを提供できるのが望ましい。そこでユーザはこのゲームの楽しさをさまざまに知るでしょうし、他者が同じコース(シナリオ)をどのように遊んだか見聞きし比べることで、互いに話題を交換し合えるのです。*1

 D16の個人的な見解を述べさせて貰うならば、D&Dにまつわる評価、D&Dの価値というのは単なるRPGのシステムにあるのではありません。
 量、品質、対応レベル、舞台の各段階で膨大なリソースが用意されてあり、ユーザはそれを取捨選択して(必要に応じて自作して)、自分たちのゲーム、セッションを作り出せる環境。何かをしたくなった時に公式であれ、非公式であれそのための情報やノウハウが蓄積されており、アクセスできる環境。
 単なる1ゲーム・システムを越えた、D&Dという1つの文化を運営しているユーザ集団(この中にはプロ・デザイナもいます)の存在がD&Dの価値なのです。
 いうなれば、D&Dとは、d20を使うシステムの名ではありません。D&Dとはゲームを提供する環境の名なのです。

 そう、D16は考えます(完全に独断なので、人に話して恥をかいても責任はもてませんけど)。
 
 英語を読めるユーザは、自分から情報を発信することが無くても、雑誌やサイトやBBSの情報からこのD&D文化にアクセスできます。したがって利益を享受できる。しかし、翻訳はどうしても日本での商品展開に乗る必要がある。明らかに数売れることが見込めない製品(そう、シナリオです)はどうしても優先順位が下がってしまう。
 その結果が「トップ・モデルを履いた裏山のスキーヤーなのです。

○メーカ側からのインストラクション不在
 さらにもう1つ。製品シナリオというのは、(基本的には)デザイナがD&Dの魅力や得意とするところをアピールし、冒険の状況の扱い方を示すDM教本としての役割も持っています。
 確かにコアのルールブックにはよきマスタになるための手法は説かれています。しかしD16の所感からすれば、それはやはりDMの“原則”であり重要だけど“概念的”、“教条的”なものなんですね。実際のセッションにおけるDMとしてのルール運用のアドバイスなどではない。
 つまり「裏山のトップ・モデル・スキーヤー」は見よう見まねの独学で、滑り方を学ぶほかない。*2

*1:誤解を招かないように注意書きしますと、冒険の舞台の多彩さとルールとしての煩雑さや難しさは一切関連しません。パワー・ゲーマーでなければ多様な冒険ができないというわけではないのです。
さらに、英語版のシナリオとかを使ってるユーザはこのあたりはクリアしてるでしょう。彼らがD&Dを選び、版がかわっても遊び続けているのはこのゲレンデがしっかりしているからです。

*2:もちろん独学だってうまくなる人はいます。けど、教えてくれる先生がいたなら事故が起こる可能性は低いのですよね。