卓上戦諸録(D16)

D16の卓上ゲーム記録

TRPG(中略)プリキュアを憎む理由(2.0)

 2005/06/30から続くmixi日記の続き。
 詳しくは、http://d.hatena.ne.jp/D16/20050630#p1以降のエントリ参照。

(2)1年間物語を続けるということはどのような意味を持つか
 プリキュアは1年間という期間を全然うまく使えなかったアニメ作品だった。
 物語を語るとき、全体の長さというのは重要だ。実際に語る本数(上下から全60編とか100巻とか)、付き合うのにかかる時間を総合したものとかにもよるが、長さによって語ることのできる物語の性格・性質が決まってくる。
 
 そして、1年4クール52話という長さはキャラクターたちの成長をしっかりと描くことの出来る長さだとD16は考えている。一通りの季節が巡り、仲間たちとぶつかり合い分かり合い、敵についても何かを学び、そして戦う意味や自分たちのしていることを登場人物たちの目を通じて、視聴者が理解できる長さである。
 もとより限りある放映時間、作劇上の要請から登場人物に急いで成長してもらわなければならないときもある、謎解きをしてもらわなければならないときもある。そのときにはそういう演出がされるだろう。演出がまずければ“なんかよくわからない”だけだ。
 僕はこの長さは単純に“物語が要求する長さ”だと考えている。また、逆に“物語りに与えられた長さ”にふさわしい語り口があるとも考えている。
 
 実のところ物語の長さがもたらす充足感というのは、“これまで作中人物がたどってきた道のりを思い返す、見出す”充足感なのだ。
 架空の事象に過ぎない物語は、小説であれ演劇であれとりあえずは一過性の、その場で認識されて過ぎ去る感覚に過ぎない。
 それに時間軸をつけくわえて、単なる事象だった“事件”“情報”を時間軸に沿って並べて解釈して初めて、全体の“大きな物語”を理解しそこにたどってきた道のりを見出す。
 全52話の話が連なってより大きな一つの物語になる。その全貌が見えたとき人は興奮し、改めてキャラクターたちがなしてきたこと、これからなすべきこと、そしてこれまでのキャラクターの判断の意味を評価できる。
 この段階にいたったとき、視聴者にとってその物語は単なる52本のショートストーリーの集合体ではない。52本の話が精密に絡み合ってより、大きな物語の為に駆動するはるかに大きく複雑で、何より“鑑賞し甲斐のある物語”となる。
 
 ここにこそ、1年間という期間を費やす効果がある。
 
 ここまでご覧になったゲーム・マスターもしくはRPGプレイヤーの方々は、お分かりいただけただろう。
 D&D(に限るわけではないが)のキャンペーンゲームとはまさにこのプロセスをTRPGで行なうものなのだ。

TRPGと一年アニメについて。もしくは(後略)(3.0)

(3)D&Dにおけるキャンペーンゲームの面白さ、その本質は一体何なのか
 D&Dの特徴はキャラクターが成長できるところにある。そして、その成長の“どの段階でも十分に”遊ぶことができるというのがすばらしいところだ。
 ぽっと出の村の若い衆が経験をつんで行き、最終的に多重次元をまたにかける大冒険をし、いくつもの国を滅ぼしまたは興すような冒険ができ、そのルールが破綻していないというのは実はすごいことなのだ。そうでなければ、キャンペーンゲームをしゃぶりつくすことは出来ない。
「昔できなかったことが、できるようになる」
 極論すれば、D&Dの楽しみはこの一行につきる。
 この楽しみを実感するには、どうやっても2本の冒険が必要なことは明白だろう。昔行なった冒険と今行なっている冒険の2つだ。
 だが、実のところ(そしてこれがD&Dのすげーとこだが)それ以上のものは必要なかったりもするのだ。
 シリーズ構成も、伏線も、キャラクターの複雑な過去も、思わせぶりなライバルキャラも、PC同士の絡みも何もかも。
 
 必要ない。
 
 D&Dにおいて大きな物語≒キャンペーンを構成するのには、複数の冒険、およびその冒険に連続して参加するPC以外のものは必要ないのだ。
 
 ひたすら穴にもぐってきた連中ならわかるはずだ。
 その辺の演出なんてものは、冒険の状況とそれに対するPCの対応によってプレイヤーたちの意図とは関係なく演出されてしまうってことを。
 出てほしくないときにでる1や、ここぞと言うときに出る20。どんなに高いレベルでも即死呪文には弱い誰かや、気がつくといつもドラゴンの足元にいるウィザード、落とし穴が大好きではまらずにはいられないシーフ。
 これらはすべて、数多く冒険を重ねるうちに自然発生する物語であり、演出だ。
 
 D&Dは単純な“洞窟探検ゲーム”として優れている、単にもぐるだけでこれだけのことが起こる。そして、このゲームは拡張性と継続性に優れている。
 ゆえに、
 長く遊べば自然とそれは“大きな物語”を形成してくれるのだ。1年52話遊べばわかる。
 そして、プリキュアのようなヘタレた脚本と違い、毎回挑戦し甲斐のある課題が用意できる。
 
 D&Dのキャンペーンゲームの面白さ、それは、
「昔できなかったことが、できるようになる」という成長を実感できること。
「積み重ねたシチュエーションにより自然に作り出された細かな物語のかけら、それらが繰り返しによりかけがえのないPCたちの物語になること」 にある。
 
(補足)キャラクターの作り込みはもちろん楽しい。しかし、1から育てたキャラクターとはまったく別だ。「何かをするためにレギュレーションの中でチューニングを重ねる」楽しみと、「今ある状況から次にするべきことの為にチューニングを重ねる」楽しみはキャラクターのチューニングをしながらもまったく別の考えに基づいていることに注意しなければならない。
 
(補足さらに)連続した冒険と参加するPC以外の要素が必要ないといっているわけでは、もちろんない。適切な準備や仕込みがなされたキャンペーンは間違いなく面白くなるだろう。ここで言いたいのは、D&Dというゲームが、もっとも単純な形・労力の少ない形のゲームですらキャンペーンの体裁を成し得るということである。