卓上戦諸録(D16)

D16の卓上ゲーム記録

Aマホの感想(0)

 先日、マイミクの古河切夏さんにお誘いいただき、話題のTRPG、『Aの魔法陣』(以下Aマホ)を遊ぶ機会がありました。初めてのゲーム、始めてのオンライン・セッションということで割と緊張してその場に赴いたのですが、ふたを開けてみればとても濃密な時間を過ごせました。
 誘ってくれ、そしてSD(セッション・デザイナー、一般のGMとはかなりやる事が違う)を勤めてくださった切夏さん、そしてご一緒してくださった、tovetaさん、氏家浩靖さん、芝村裕吏さん(なんとAマホのメイン・デザイナー! )に感謝いたします。

 とりあえずはそのときのログを紹介。
 SD古河切夏さんのサイト“AdolescenceLost”より、
 404 Not Found

 この日記読む人は割と多くがD&D者なので、国産の新システムには疎いかも知れません、Aマホは非常に斬新なルールで、一口に説明するのが難しいです。が、実はプレイした感想として、共通点というか思うところがあったのでこうして文章にしています。
 新しいRPGで斬新なシステムだという時点で何らかの説明はしなければならないと思うのですが、今の時点(1回のオンライン・セッション)では自分でうまく言えない気がします。なんで、先達の紹介記事をひきます。

 「Lazy Cozy Diary」(ゲーマー・ライター・小説家、海法紀光さんのサイト)より、
 Aの魔法陣による高橋メソッド

 で、
 上記の説明でも「正直何のことやら」って人は多いと思います。まぁ、そういう人はまずWeb公開されているAマホのルールを読んで、それから今回のセッションのログを読んでいただければよいでしょう。背景世界とかは気にしなくても、本稿の内容の範囲では構わないはずです。

 Aの魔法陣公式サイトより、
 Aルールサマリー -Aの魔法陣-

 ま、それでもAマホのゲーム進行を簡単にまとめると、

1.目的の提示
 Aマホではセッション開始時にSDからはっきりと「M*〜」という独特の書式でゲームの目的と難易度、ゲームのターン(手番の回数)が示されます。

2.行動の宣言・判定
 各プレイヤーは1ターンに1度の自分の手番で、目的遂行のために、“行動宣言”します。その行動宣言の内容をSDは吟味し、その行動の“難易度”を設定。
 プレイヤーは自分の“行動宣言”を成功させるために、自分のキャラクターの持つ“成功要素”を“提出”してゆきます。で、そのうち有効とみなされた“成功要素”がSDにより“抽出”され、最終的に“成功判定”の対象となる成功要素の数が確定します。
 そして、

a)抽出された成功要素の数だけ6面ダイスをふり、出た目を合計。と、b)ダイスを振らずに、ダイス1個につき、+2の修正を使用。

 を組み合わせて合計を出します。この合計値が、
 難易度の2倍以上→成功
 難易度未満→失敗
 難易度以上2倍未満→中間判定

 となります。1d6の期待値3.5から考えると振った方が有利なようですが、判定時に1の目が1つでも出ると自動失敗なので、固定値を積み上げてゆくのがセオリーになってます。

3.難易度の減少
 プレイヤーの行動宣言にSDが提示した分の難易度が(成功すれば)ゲームの目的の難易度から削れます。こうして、次のPLに手番を回し、指定されたターン以内にゲームの目的を果たす(=難易度を0にする)。のがゲームの目的。

 では、遊んでみた感想を。以下別エントリで。

Aマホの感想(1)メタゲーム的思考について

 “恣意的判断”についての収斂進化。
 Aマホのシステムとして目を引くのはその判定系だろう。
 成功要素の提出→抽出、前提変換による難易度引き下げなど、基準となるところが大きくSDの判断による。特に、成功要素の“提出→抽出”はSDの判断による、それに対して一意となる基準は、PLとDMが共通で読む製品としてのルールには示されていない。

 具体的に言おう。
 “剣を構えたオーク鬼の脇をすり抜けて移動する”

 この行動は、D&Dの場合には

 “中型サイズの敵の機会攻撃範囲内を、機会攻撃を受けずに移動する”行動であり、敵が『モンスター・マニュアル』のオークであるなら、〈軽業〉技能の記述により、判定は“1d20+〈軽業〉技能修正値≧難易度15”

とルールで規定される。
 これは、D16の元で行なっても、デザイナMonte Cookのマスターのもとで行なっても(すなわちマスターが同一人物でなくても)、また超小型サイズのピクシーが行なっても超巨大サイズのティタンが行なっても(行動の主体が誰でも)同じ判定で処理できるということであり、これをもって「定型処理が効く」とひとまず言っておく。

 一方Aマホであれば、(行動の主体であるキャラクターの根源力や、そのセッションの判定単位はとりあえず置いておいて)件の行動に対しては、プレイヤーが置かれた状況の確認を質疑応答で行ない、そして手持ちの成功要素を提出、SDの抽出、成功判定ということが行なわれる。そして、この各手順においてSD個人の判断が大きく影響する。

 数値的な基準は、難易度5が“1人で苦労しながら解決できる”といったように基準こそ示されているが、個々の状況に応じてSDが実際の値を判断し難易度を決定する。
 提出された成功要素のどれを抽出するかはSDの判断による。

 個々の状況による誤差を置くとしても、特定状況において、芝村氏のSDでは抽出された成功要素が、切夏氏のSDでは抽出されなかったりすることがある。そして、それを当然としているのがこのAマホのAマホたる由縁だろう。
 イントロダクションのスペックで“定型処理能力:水準よりかなり劣り、最低水準にある”と自ら示すだけのことはある。

 時折見かける“口プロレス”という言葉は、こうした定型処理がきかないSDの判断に対し、説得力のあるように成功要素を提出する作業を揶揄するものだろう。

 判断の基準が、プレイヤーとマスターの共通理解である“製品としてのルール”に示されていないなら、行動の成功判断の基準がマスターにあるのなら、ゲームの根幹である、
 “キャラクターのビルド、リソース投下のタイミング判断、そしてその結果の適用”
 のいずれの段階にも、PLは見当をつける事ができない、信が置けない、何を根拠に行動してよいかわからなくなる。

 “製品としてのルール”に根拠となる情報がないなら、PLはセッション時のマスターの言動や判断基準その他のゲーム外の情報を読み取って行動するという、メタゲーム的思考、メタゲーム的判断を行なうようになる。そして既存のゲームではこうしたメタゲーム的判断を良しとしてこなかった。
 『ダンジョン・マスターズ・ガイド』の該当箇所を引用しよう。

 「読めたぞ、落とし穴の反対側に罠を解除するレバーがあるはずだ」と1人のプレイヤーが言い出した。「どうしてかって? このDMが解除できない罠なんて作りっこないじゃないか」――これは“メタゲーム的思考”の一例である。プレイヤーが“これはゲームなんだからこうだろう”というロジックでキャラクターの行動を決めたら、これすなわちメタゲーム思考である。これはロールプレイの興を削ぎ、ゲームの現実感を損なうため、避けねばならない行為である。
 メタゲーム的思考の裏をかいてプレイヤーたちを驚かせてやろう。たとえば、落とし穴の向こう側にレバーはあるが、錆び付いて使い物にならなくするのである。プレイヤーたちの緊張感を保つこと。そして、いらぬ考えをして失敗しても文句は言わせないことだ。そしてDMの流儀でなくゲーム世界の流儀で物事を考えるように諭すこと。ゲーム世界において、ダンジョンの罠というのは誰かが何らかの意図をもって仕掛けたものだ。君がそれをふまえて罠を配置すれば、PCたちもそれをふまえて行動するようになるだろう。

 『ダンジョン・マスターズ・ガイド』では問題を“ゲームの現実感を殺ぐこと、ゲーム世界の流儀で物事を考えなくなること”においているが、D16が考える限り、メタゲーム的思考にはもう1つ問題がある。
 その問題とは、“ゲーム内ルールの適用で行なえること、処理”と、“ゲームルール外の判断で行なえること、処理”のダブルスタンダードをマスター側が提示してしまうということだ。そして、それによる判断基準の揺らぎが生じることである。
 A状況においてはゲーム内判断、B状況においてはゲーム外判断という風にであっても固定されているならまだいい。が、A状況において、あるときはゲーム内判断あるときはゲーム外判断で裁定(およびその基準)が下されるとなったら、参加プレイヤーは何を基準として行動してよいのかわからなくなる。
 始末の悪いことに、このメタ判断をもって“粋”とみなしたり、その技術を“空気を読む技術”としてテーブルテクニックととして要求し始めたりすると、ついていけない人間にとってはセッションははなはだ不愉快なものになる。自分の取った行動はうまく行かないが他者のとった行動はうまく行き(同じような行動なのに! )、しかもそれを解決するのに、“空気を読め”とか言われる。

 

#やや脱線。僕は、ツーカーの仲になったプレイグループで“明文化されないやり取り”、“メタ判断”が生じ、その雰囲気を楽しむこと自体は一切否定しない。つか、大好きだ。
##けど、それが“粋”であるというなら、他人にそれを強制することやついてゆけない人間をプレイグループに生むという、“無粋の窮み”をどう思うのかと問いたい。
###“粋”なんて言葉、そもそも口に出した時点で“無粋”だろうがよ。

Aマホの感想(2)メタゲーム的思考の解決

 RPGは碁や将棋といった抽象ゲームと違って、多様な判断を要求する状況が多い。それゆえ、どうしてもある程度はルールのカバーする範囲を離れ、マスターによる判断に頼るところがでてくる。
 ルール外判断はどうしても、起こる。それをRPGはどのように克服してきたか。D16が知る限りここまでそれは2つのやり方があった。

解決方法1
 マスターとプレイヤーによる相互理解。
 マスターによるメタ判断、明文化されない判断基準を、セッションを重ねてゆくことによりPL側が誤差を修正、収束プレイグループの判断基準を自分達のものにしてゆく。
 明確な手法によるのではなく、ひたすらに誤差修正をおこない、自分達のプレイグループのかけがえない基準を作ってゆく。

 おそらく、これまではこれが王道であった。
 重ねたセッションが作るそのプレイグループの判断基準っていうヤツは、参加者全員の好みも偏差も組み込んだ、納得できる基準であり、プレイグループの宝といっていい。
 だが、新規参加者はやはり数回以上のセッションで、自分の判断をそのプレイグループに擦り合わせてゆく必要がある。もちろん受け入れる側の既存メンバーもだ。だが、擦り合わせによる変化を居心地が悪いと感じるメンバーは常に存在する。
 さらに、この離島的な基準はコンベンションなどの場所では通用しない。そうした場では暫定基準なり、なかば個人の才覚によるプロトコールによって一時的な卓の相互理解を図る必要がある。そしてそれは決して容易に身につく技術ではない。

解決方法2
 D&Dパワープレイ、本邦ではBeholder式パワープレイといっておく。詳細はリンク先参照、
 
 厳密に言うなら、ここであげているのは、リンク先で提唱されたパワープレイの基本思想の一部である。
 “DMによる恣意的な判断”を最小とするため、PLとDMが“ルール”という共通言語でゲーム内の状況を記述する。共通の概念を操作する言語を用い、齟齬の生じる隙を作らない。
 DMの判断基準のうえに、DMとPL双方共通の判断基準である“ルール”を置くというスタンスであり、多様な状況に対して、対応するルールを随時発表、導入して行く。

 言わば、覇道。
 これができたのは、D&Dという、実はすごく狭いジャンルを遊ぶルール故と言えるだろう。

#それだって、たいていのことはこなせるし、ケンタウロスと結婚したドワーフの子供がどうなるかなんてルールや、次元間戦争を記述するルールだって(オフィシャルではないが)ある。
##逆に、麗しの姫の無聊を慰めるために詩歌を吟ずるなんてのは、キャラのロールプレイ的なところが入るのかもしれない。まぁ、技能ロールや【魅力】判定一発振りで解決させるようなのもありえるが。
###つまるところ、重点が置かれているのが切った張ったであり、そこに注力している(ジャンルが狭い)からこうしたことが可能だった。

 優れている点は、製品としてのルールが流通していて、それをこのスタイルで遊んでいるなら、(そして聖典判読の如きルール論争に一定の合意をとれたなら)、どこでも誰とでも遊べるはずというところだろう、囲碁や将棋のように初顔でもある程度は遊べるのだ。
 難点は、膨れ上がるルール管理の手間だろう。さらに、ルールに習熟するという時点でその段階に個人差はでてしまい、共通理解に差は出る。

Aマホの解決方法
 メタゲーム的な思考を組み込んでいるあたりが、このゲームのキモかもしれない。
 確かに、裁定の判断・基準はSDにある。だが、SDには厳然とした禁則事項がある。ルールブックに定められているとおり、
「SDは進行役も物語の語り部も行なわない。それをすることは厳重に禁止されている」
 ルールにはっきりと“恣意的な判断の禁止”が示されており、そして、ゲームの進行手続きでそれが実行されるようになっている。

 SDがセッションで権限を行使する一番目立つ行動、すなわち、成功要素の“抽出”においては、抽出しなかったつまり、認めなかった要素については、“その理由を説明する必要がある”。
 また、プレイヤーもSDに抽出されなかった理由を尋ねることができ、SDはゲームの進行を止めないと判断する限りそれに“答えなければならない”。
 つまり、SDには自分の判断基準を説明する義務があり、このガラス張りの判断過程を元に、PLは判断を修正できるのである。

 理解をすり合わせることにおいて、解決方法1とやっていることは同じようにみえるが、Aマホではこれは厳然としたゲームとして要求される手続きであり、けっしてマナーや暗黙知や“空気を読む”とった漠然としたものではない。
 確固とした判断基準を得る手段である。
 SDの性向・偏差をPLが認識し、あわせて収束できる不可欠のルールであり、「M*〜」から始まるゲームを解決するための不可欠な手順でもある。
 というよりもこの理解を成立させる事が、すでにゲームなのだ。

 Aマホにおいて、“ゲーム内判断”と“ゲーム外判断”は一体化する。
 そこに、もはやダブルスタンダードおよびそこからの諸問題が発生する余地は、ない。
 実のところ、メタゲーム的思考・マスターの恣意的判断を廃絶することを目的とする点で、D&DパワープレイとAマホの目的は一致する。
 片方は、DMをある意味ルールで矯正し、入力と出力の間の関係を信の置ける一定のものにするという手法。
 もう片方は、SDを丸裸にし、その応答をガラス張りにしてゆくことで、プレイヤーが入力出力の関係を把握するという手法なのだ。
 望む出力を得るために、PLが入力を加減する。SDからの応答の誤差を次の入力時にフィードバックする。Aマホのルールブックにある、“静止状態で負の安定性を持つ”、ということの謂いはこういうことかとD16は考えた。

#もちろん、個人の意見なので鵜呑み禁止。「ぜんぜんちげーよ」って言われて、恥をかくのは僕一人でいい。

Aマホの感想(3)ゲームとしてのタフさ

 Aマホは口プロレスと揶揄される類のゲームでは断じて、ない。
 “製品としてのルール”なる言語で、がっちりと構築・シミュレートされるゲーム空間を“あえて”構成しないことを選択したため“ルールがスカスカ”に見えるだけだ。
 セッションの運営方式、行動宣言の判断など、厳密な手続きに基づき、「M*〜」から始まるゲームの目的をクリアしてゆく、タフなゲームである。

 以下脱線。
 さらに言うなら、D&Dヘビー・ユーザーに時たまあげつらわれる、ストーリー・エンジンやハンドアウトなどのプレイエイドを実装した国産ゲームも、
「ゲーム・ルールという言語で、特定ジャンルの物語空間を構成し、それをPL、GMの共通理解として提供しようとしている」のであり、それらをD&Dなどのゲームと同じ遊び方をしてああだこうだいうのはお門違いだろう。
 特定ジャンルのストーリーを展開させるためには、そのジャンル世界の世界則にデフォルメをかける必要がある。実のところ、戦闘は1ラウンド6秒単位で解決する一方、〈製作〉は1週間単位の20面体1回振りで解決するD&D自体がすでに、そういった「ジャンル世界を再現するための世界則デフォルメ」をしまくっている。
 “D&Dならなんでもできる”というのは幻想である。正確には“D&Dなら、D&Dが再現しようとしたジャンルはできる”というのが正しい。さらに言うなら、D&Dに手馴れたマスターがさまざまなサプリやアドヴェンチャーを読んだり、雑誌を読んで触発されてさまざまな冒険環境を再現しようとするのであり、コア3冊だけ読んだ人にとっては、やっぱりD&Dは「穴に潜って竜に食われたり殺されたりする“しかできない”ゲーム」であるだろう
 そこに多様な遊び方を例示するのが、先に遊んでた連中がやることだ。

 概念的にAマホがすげえなと思うところは以上。で、システムとしては、ターン進行、行動宣言の順番、質疑応答、行動宣言、行動判定といった手続きを、厳密なものと明確化し、そして固定した点だろう。
 そうでなければ、単に言った者勝ちで物語が発散してしまい、収束させるための介入が招かれてしまう。セッション運営形態をかっちり規定したことでそれが起きなくなっている。
 具体的にいってみよう。

 Aマホではセッション中プレイヤーがゲーム的に意味のある行動宣言を行なうことのできる回数は、他のゲームに比べて驚くほど少ない。
 
 びびるほど少ない。
 泣きたくなるほど少ない。
 
 D16が参加したセッション(404 Not Found)を例に取る。
 2ターンのゲームで、参加者4人。PLサイドで行なえる行動宣言の回数は、全員合わせて8回。ロールプレイ的なやり取りはともかく、実際にゲーム空間に働きかける行動を能動的に取れる回数が8回。
 少ないだけではない。辛い。
 セッションの難易度は120、平均して、1人1手番で120/8=15ずつ難易度を削る必要がある(ダイスに頼らず、完全に成功するには難易度の2倍の成功要素が必要なことに注意)。
 今回のPC1人が持っている成功要素は、基本10個にアイテムなどで3から5、状況により一時的に提出できるのが最大2つ、取って置きの絶技というのがあって使用したら要素5つ分(だが、1ターン1回しか使えない)。アイテムなどをフルに使えても1ターン、最高で20〜25ほどしか成功要素は提出できない。さらに、その状況に合わない成功要素は“提出”しても“抽出”されず、成功要素にカウントされない。そもそも、まったく関係のない成功要素は提出できないことを考えれば、成功要素を手番ごとに全部提出するのは困難を極める。
 状況を読み、成功要素をカウントし、自分にできることを考えなければならない。たった2回の行動宣言でその目的を達成しなければならない。
 だが、泣いてても解決しないから、泣きながらその貴重な行動宣言を吟味する。
 行動宣言の前にはその行動について質疑応答が許される。そこでSDに尋ねることで難易度の推定も行なえる。だが、質問に対しては“SDが確実に答えなければならない回数は2回、3つ目までは不確実な回答、そして4つ目以降は答えてはならない”とこれまた厳密に定められている。
 個人の問題としてだけ考えても、行動を成功させるために“何を問うか”のレベルで判断が必要だ。さらに、パーティの共有情報となることも考えればさらにその責任も重くなる。
 行動宣言も含めて、自分が自分のPCの手番に行なう質疑応答、行動宣言はパーティ全体のリソースを費やすものであり、責任が生じるものである。個々のPLの出来不出来は全体としてのミッション達成にダイレクトに影響する。
 すると、各PLが各PCの特性を良く知ったうえで、全体の物語の流れをPLサイドである程度コントロールし、各PCが自分の性能をフルに発揮しうる状況を作る必要がある。
 
 重ねて言うが、パーティ全体で8回しかない行動宣言でだ。
 
 今回のセッションでは自分は他のPLの方と意思疎通が充分とは言い難かった。ざっと見て、荒事に提出できそうな成功要素が少ないため、情報収集などを任せてもらったが、個人で難易度を削ることしかできていない。例えば協調行動を取ったり、荒事実行者がフルに活躍できるように状況をセッティングする行動を行なったりというのが、多分チームプレイのキモだろう。まどか(芝村さん)、藤城(氏家さん)の協調行動とかを見ているとそう思う。

Aマホの感想(4)断片的なまとめ

 さらにいくつか、やや断片的に。

 このゲームは目的を果たすために、

      • 情報を集め、
      • 現状を把握、判断し、
      • 行動方針を決定し、
      • リソース投下の決断を下す。

 という、ゲームの根幹となる楽しみがむき出しになっており、多分、2ターン以上のゲームであるなら、1ターン目が終わった時点でこのむき出しの楽しみに気がつかされる。
 ほかのRPGでは、すぐには上記の楽しみはわからないだろう。というのも、この楽しみを知るためには、まずPCをそのゲームのルールにのっとって過不足なく運用できるようになる必要があるからだ。

 Aマホはこの、「PCをあるていど自在に操り、ルール言語が記述するゲームの物語空間の挙動を把握する」というステップに要するコストがかなり低い。PCたちの行動をプロトコルに突っ込んでゲーム言語に変換する手間が必要ない、自然言語で行動を処理できるシステムにしてあるからだ。
 プレイヤーは自分のPCにやりたいことを自分の言葉で言えばよい。ルール的にどうするかをいう必要がない。
 他のRPGがエンジンを積んで動く車だとしたら、Aマホは自転車だろう。いや、もしかしたら道具ですらなく、新しい“走り方”なのかもしれない。
 話を元に戻す。
 Aマホの新規参入者は短期間で上記の楽しみを見出せる。そして、他のRPGにおいても、ルールを使いこなすその前に、目標地点(ゲームの楽しみ)が見えているので、何をすべきかの判断が容易だろう。車の運転の仕方を覚えることだけで済む。

Aマホと対比して、D&Dのおもしろさを考えよう

 RPG(に限らないゲームの)のおもしろさは、Aマホではむき出しになっている。そしてそこへ至るための道スジははるかにAマホが早く軽い。デザイナーズノート通りである。あそこに書いてあることは完全に事実だろう(未読の方はデザイナーズノートの一読をオススメする。痛快、の一言だ)。
 おもしろいのは、小型・最軽量という現在のD&Dとは正反対から切り込んでいるにもかかわらず、前述したようにいくつかの点ではD&Dがそのコンセプトと一致しているようにみえるところだ。
 逆に言えば、AマホのおもしろさからわかるD&Dのおもしろさ、今後の展開もあるはずだ。それを考える。
 
 なお、Aマホについてまじめに書いたのは前のエントリまで。以下はグダグダなので期待しないように。とはいえ、D&D者にとってはそれなりに意味ある文章だと思う。
 
 D&Dの優れたところ。
 実のところ、それはAマホの性能諸元から簡単に導ける。
 D&Dは高い“定型処理能力”を備えているというところだろう。
 D&Dは「ルールに従い、メタ判断を減らせば」マスターによる当たり外れは少なくできる。そうやって遊べる。
 Aマホがきっぱりと『このゲームはSDとプレイヤーの上手い・下手が極端に出やすいゲームです』と言っているのと、まったく別のことをしているのだから当然だろう。
 判定基準をルールというユニットで後から組み込むことで、DM個人の力量でなくD&Dというシステムのみで本来の70%から80%の楽しみが得られる気がする。
 
 誤解を恐れずに言うなら、D&Dにおける“とんでもなくおもしろいマスター”というのは、D&Dの性能を一瞬とはいえ、120%まで引き出せるか、上手に5カウント以内で反則を行なえるマスターだろう。
 で、そんなものは目指さなくて良い。目指してプレイグループ巻き込んでコケるくらいなら、90%をアベレージで発揮できるようになれば良いのではないかと思う。以上、完全に私見。
 
 それは、コンピュータで済む? 否。
 現時点ではまだ、毎月のサプリメントを取捨選択・導入し、プレイグループにテイラーメイドされたプレイ環境を提供するのには人のほうが優れている。そして、定型処理に基づくがゆえに拡張性は高い。
 
 あと、直接のセッションのおもしろさに結びつける有意義な論とならないので、もう本当に茶飲み話でしかないのだが、
 D&D遊ぶ連中のヘンな特徴、それはD&Dのユーザーはマスターについてゆくのではなく、D&Dというゲーム・その遊び方についてゆくという点だろう。
 誤解を招く書き方を敢えてするなら――、
 連中は、たとえプレイ回数が3月にいっぺんでも毎月販売されるサプリを読んではニタニタ夢想し、PCが使いそうもない追加スペルの出来不出来に文句をいい、そもそも特定目的のために用意された上級クラスや基本クラスの汎用性を口角泡飛ばして議論し、禿と髯のどちらが嫌なヤツかを話し、20面で20さえ出せれば良いとゲーマーにあるまじき見苦しい賭けに出て(時々出すから始末が悪い)、見苦しいことこの上ないマルチクラスや+がいっぱいついた武器をありがたがり、コーラとピザとビールとプリングルスを貪り食う連中なのだ。
 そもそもACとSTがあれば良いくせに、スピードファクターがなくなったことで絶望するなよ、つかコピシュなんてお前ら使うのかよ、頼むからおんなじ名前の特技を2つも3つも出すなMind Over Bodyなんざ三つで全部効果違うじゃねーか、ハーフオークでスパイクトチェインで本格ファンタジーとかゆーな……。
 連中は、d20振ってれば良いという点が一番始末に悪い。
「君にとってD&DがほかのRPGよりもおもしろいところって、なに? 」
と聞いたとしよう、連中はいろんなことを言うかもしれない。世界観がどうとか、リアルな戦闘だとか、多彩なキャラクターオプションだとか。けど実のところ、連中の心を捉えているのは、20面と魔法のアイテムとファイアーボールだ。間違いない。
 
 周りを見るに、連中の何割かは、Aマホの時に上げた

      • 情報を集め、
      • 現状を把握、判断し、
      • 行動方針を決定し、
      • リソース投下の決断を下す。

 もさることながら、それを実行する時点での『ルールの行使』それ自体を楽しんでいる気がする。つまり、ルールという道具を行使する喜びで、戦争で言うなら作戦を遂行する楽しみや、戦術を練る楽しみではなく、鉄砲やミサイルをぶっ放す楽しみだ。つまり、10レベルウィザードが10d6をざらざら振る喜びであり、ファイターならクリティカル・ヒットの元に敵を切り伏せ、《薙ぎ払い》を発動する喜びである。
 いわば、ルール言語で記述されたゲーム世界に、自分がやはりルール言語で影響力を及ぼし、そのちょっとした万能感を満たす喜びだ。
 それは、その、困ったことに、この上なく原始的で、そもそもストーリー・ゲームのタクティクス自体とは“一切関係ない”
 
 そんな事がわかるのか? ああ、わかるね!
 俺がそうなんだ(タメイキ)。
 
 まあ、あとは素直に「モノ・オモチャの楽しみ」だろう。
 ミニチュア、フルカラーの製品、そしてWebなどで公開される数々の地図やハンドアウト。これを用意した、えらくかさばるセッションは、ときにそのオモチャに本来の目的を忘れちゃいそうになるけど、愉しい。現在のルールがミニチュア使うのが前提なのにもよるけどさ。
 結局D&Dというのは30年前から一貫して、ミニチュア・オモチャをつかうゲームだったのだし、そしてそれは本国ではごくごく自明のものだった、ようだ。
 けど、日本ではミニチュアは揃えにくい。大貫さんがD&Dを日本に紹介する際、AD&Dではなく、赤箱にしたのは、AD&Dにはミニチュア使用を前提としたルールがあまりに多かったからだというのを読んだことがある。
 
 D16個人としては、この先新規にD&Dを紹介するのであれば、RPGという説明に「物語性」を前面に押し出さないほうが、理解が早いんじゃないだろうかとすら思う事がある。実際、完全なRPG初心者に対して、僕がしている説明は、こうだ。
D&Dは、プレイヤー1人がこのミニチュアで示されるキャラクターというユニットを操作して、パーティを組み、与えられるミッションをマップやジオラマを使った戦闘や、キャラクターの特殊能力でクリアしてゆくゲームです」
 この説明の方が、最初何をするべきなのか、何ができるのかを正確に理解してもらえるようだ。
 かりに、この文章をまったくRPGやD&Dを知らない人が読んで、そこでベーシックセット買って、純粋にボードゲームとして遊んだ(DMは審判として回り持ち)としよう。その人は現在日本で言うところのTRPGとしては20%の楽しみしか味わえないかもしれないけど、D&Dとしては70%くらい楽しめていると思う。
 そしてそういうユーザーは既存のD&Dプレイグループにスムーズに順応できるんじゃないだろうか? 
 
 と、とりあえず取り留めないままに、まる。